北大「大滝セミナーハウス」が一般開放、ブランドを活かした交流型のゲストハウスにしてみたら
2011年11月28日掲 載
北海道大学が運営している教員・学生用の宿泊研修施設「大滝セミナーハウス」(伊達市大滝区)が、10月から大学関係者に限らず、だれでも家族旅行などで利用できるようになった。宿泊費は朝夕2食付きで2170円と激安。かけ流しの天然温泉もある。利用者増を狙った試行だが、PR不足のせいか、一般客からの申し込みは、まだほとんどない。(11/28付 朝日新聞北海道版)
セミナーハウスは、札幌から中山峠を越えるルートで車で約2時間の山あいにある鉄筋コンクリート2階建て約2240平方メートルの施設。開館は1978年。2段ベッドが4台置かれた8人部屋(18平方メートル)が8室、和室3室、研修室のほか、体育館やグラウンドがあり、野球用具や自転車の貸し出しもしている。
大学など教育機関の研修施設の利用率は全体的にかなり低いのではないか。記事の中にも、道内の国立大学の研修施設は、最近では教職員が合宿で研修をするケースはほとんどなく利用者は減り続け、2005年度の約1万2千人が、10年度には4割減の約7千人になっているとある。管理人も学生時代、こういった施設に泊まった記憶はなく、セミナー合宿は温泉旅館でやっている。
この大滝の施設は建物は古そうだが、温泉は掛流し、料金は異常に安く、2食付で何と2170円である。しかし、、利用は原則4人以上で、予約は1週間前までという高いハードルが設定されている。かなり浮世離れしているが、PRと規制さえ緩めれば需要はありそうである。
官庁や企業の福利厚生・保養施設はこの10年余で多くが処分されている。また、生き残った施設の中で一般向けに開放を始めたところもかなりになる。保養施設リストラの中、大学の研究施設はその対象から外され、生きながらえてきた。
管理人は行政機関や企業が職員やその家族向けに保養施設をつくるという日本ならではのシステムは素晴らしいと思う。しかし、合理化・効率化の名の下に福利厚生は削られ続けてきた。無駄な施設が多いのも事実だが、大学の場合、交流スペースとしてもっと活用されていいのではないか。
北大であれば世界中からゲストが来るのでゲストハウスとしての機能、また、ユースホステルのような感覚で、ひとり旅の若者や外国人などを受け入れ、国際交流施設にすることもできる。また、企業セミナーや産学共同でのイベントなど単なる合宿所や宿泊施設ではなく、北大というブランドを活用し、「ビジネス・スプリング」のサテライト機能として活かす方法もある。
そのためには施設の改装も必要であろうが、北海道の自然や温泉、食事などが体験できる本格的なゲストハウスがあってもいいはずである。
北大構内には札幌グランドホテルが運営する「レストランエルム」がある。管理人もたまに寄rらせていただいているがとても雰囲気がいいレストランで、ゲストハウスの機能を果たしている。これと同じコンセプトで大滝セミナーハウスを運営できればいいと思うがいかがであろうか。
ホテルオークラ札幌のチーフ・バーテンダーK氏の「おもてなし5ヶ条」
2011年05月04日掲 載
管理人は夕方時間があれば、一杯ひっかけるのが好きだ。バー、スペインバル、駅ナカ、蕎麦屋、酒屋の角打ちなど業態は様々だが、その時の気分や懐具合と相談しながらルーティンワーク化している。時間は10分ぐらいから長くても1時間ほど。あくまでも食前酒である。
札幌滞在中に必ず訪れるのが、ホテルオークラ札幌のバー「オークラ」である。1階にあるレストラン「コンチネンタル」の脇に専用階段があり、中二階のようになったところにバーがある。このホテルをよく訪れている人に聞いても、「そんな場所知らない」という人が多く、いわゆる「隠れ屋」である。
カウンターとボックス席があるが迷わず、カウンターへ。カウンターは5席ほど。普段は男性のバーテンダーK氏とS君が切り盛りしており、混んでくると下のコンチネンタルから助けが入る。管理人が顔を出す時間帯は6時前後だがまだ閑散としている。北海道は夕食前に軽くやる習慣がないと訊いたが、いつも早い時間は空いており、やはりそのようである。
年に数回訪れるレベルだが、顔を出すとチーフのK氏がいきなり、「O様、○月以来ですね」とすぐに出迎えの挨拶が。その月日が正確であり、常連客でもVIPでもない管理人を覚えてくれていることに感激する。30年以上のキャリアは伊達ではなく、謙虚な人柄に好感が持てる。流石はオークラといったところか。
先日、K氏から自らの信条というか仕事に対する5つの心得を聞いた。これはマニュアル本に書いてあるものではなく、自らの体験・経験から発見したものなので是非紹介をしたい。
- ホスピタリティ(hospitality) 勿論、おもてなしという意味だが、「客好き」という意味もあるそうだ。客を好きになる
- スキル(skill) バーテンダーとしての専門性、プロとしての技量・知識は勿論だが、サービスも含まれる
- エモーション(emotion) 感動を与えることができるか。また相手から貰うこともある
- プライオリティ(priority) 今何に重点置くか 場を読む能力である
- サプライズ(surprise) 驚きというよりは意外性。いつも新鮮な気持ちでいられるか
この5つの心得を聞いて、思わずメモした。だからブログで紹介できる。サービス業だけではなく、人と接するあらゆる分野に通じる内容だ。頭で理解するのは簡単だが、実際には大変なことである。ホスピタリティ・ビジネスに携わっている方には是非、認識していただきたい5つの心得だ。
なお、バー「オークラ」、料金は至って庶民的。HPを見ていただければわかるがハイボールなら7百円ほど。さらに5時から7時までの「ハッピーアワー」ならドリンクが全品半額である。申し訳ないぐらいの金額だが、正統派バー好きの人にはおすすめである。昼の疲れが取れる。
札幌のホテルバー事情を紹介したブログはこちら
旅の印象を悪くするような「節電」はやめよう
2011年04月29日掲 載
節電が始まって一ヶ月半が経過した。最初は違和感があった灯りの消えた暗い街並み、駅、商店であるが、今では目が慣れてしまっている。しかし、初めての場所を訪れ、そこがやけに暗いと、気分が滅入り、何となく不安になるのも事実だ。
管理人は空港、ターミナル駅、ホテル旅館、観光施設などお客様をお迎えする場所は、暗くするべきではないと考える。たとえば、外国人が初めて成田空港に降り立ち、薄暗かったらどう思うであろうか。見知らぬ土地の第一印象は、「明るい」か「暗い」かで大きく異なる。
生まれて初めての海外旅行(1984年)でトランジットに降り立ったモスクワのシェレメチェボ空港は恐ろしく暗かった。何回か利用したマドリッドのバラハス空港をはじめてする欧州の古めの空港は全体的に暗い(今は違うが)。アジアではマニラ空港も同様な記憶があり、米国の空港を除けば、現在節電中のJR東日本の駅構内よりもさらに薄暗い印象が海外の空港にはあった。
本来、ネオンも少なく、節電意識が徹底している欧州ぐらいの明るさがベストであると思うが、日本はこの面では米国を模している。管理人の子供時代は夜ともなれば商店は全部閉まり、街灯も少なかったので暗いのが当り前であった。ところが、コンビニが登場した頃から眠らない時代となり、地方へ行っても不夜城の状態。何でコンビニが24時間営業するのか理解できないが日本は明る過ぎる国となった。
しかし、明るくしなくてはならない場所もある。空港や駅などのターミナルに限らず、ホテルや観光施設、テーマパークなどは暗くては話にならない。夢や非日常を売る空間が辛気くさくては、お客様に対して失礼である。勿論、テーマパークでは、苦労しながら節電対策を実施しているが、ホテル旅館などでは、せめてエントランスやロビーは通常通りの明るさにしていただきたいと思う。
何でも右へ倣えは自主性と創造力の欠如である。上からのお達しや周囲への配慮もあるかもしれないが、現在はスーパーやテナントビルが入口から最上階まで均一的に照明を落としている。顔であるエントランスぐらい普通どうりでいいのではないか。ネオンも営業時間中ぐらいは構わないと思うが。ホテル旅館も同様であり、こんな時こそパッとやるべきである。
大型連休が始まったが、是非、お迎えする最初の場所は、明るくしていただきたい。第一印象は重要である。今は戦時中ではなく、異常事態ではあるが非常時ではない。その程度の電力は十分に賄えるはずだ。
追記:政府は大口向けの節電目標を25%から15%への変更を発表した。(29日)
地震でみた北海道人気質 このおおらかさには救われる気分だ
2011年03月15日掲 載
12日は完全に閉鎖された函館駅と駅前 交通規制で車やバスは入れず
管理人は関東に戻ったが、遂に計画停電が始まった。しかしながら我が家のエリアは昨日は中止となり、今日は実施されたはずだが電気は燈っていた。しかし、町へ出てみるとゴーストタウン、僅かな客しかいない居酒屋で呑んでいたが、ふたたび東電への怒りがこみ上げて来た。東電は既にガバナンス能力を失っている。
管理人は2月20日のブログでとんでもないことを書いてしまった(内容はこちら)。要約すると、日本経済が復興する可能性があるとすれば、首都圏にカタストロフィ(歴史的大惨事)が発生した場合と書いた。大地震や原発事故など都会に住めない状況になった場合、地方への移住(避難)が加速する。たとえば首都圏人口の1割(3百万人)が地方へ分散するだけでも、地方にとってはとてつもないと特需が発生する。特に北海道には多くの人が集まるというものだ。
現在、そこまでは状況が悪化していないが、首都圏近辺で大型地震(余震でも)が起きればそれが現実と成り得る。自分でとんでもないことを書いてしまったと思っている。
管理人は函館に3日間、閉じ込められたが、地元の人たちは「函館に大きな津波が来るなどあり得ない」と口を揃えていた。ご存知かと思うが、朝市周辺には2メートル近い津波が押し寄せ、使い物にならない状態になっていた。波は市電が走る海峡通りを越えて、大門周辺まで達したという。人間の経験則など大自然からみれば浅いものだ。
駅前、朝市、ベイエリアを翌日歩いてみたが、復旧作業で懸命であった。多くの観光客が当日は泊まっていたはずだが殆ど姿を見かけなかった。皆、どこへ行ってしまったのであろうか。
それでも函館の人たちは懸命に復旧作業をしていたが表情はそれほど暗くない。やはり、北海人のおおらかさであろうか。不安で凹んでいる首都圏とはどこか違う。そんな北海道人気質がまた好きになった。
復旧作業中の駅前・朝市・金森ベイエリア
青森から函館へ移動中に震災に遭遇 危機管理は特別なものではない
2011年03月14日掲 載
S白鳥が停車した葛登支岬付近の灯台と茂辺地駅(3/13撮影)
国家的災難とも云える大災害が起きてしまった。今は一刻も早い被災者の救出とこれ以上、被害が広がらないことを祈るのみである。
管理人は11日、青森13時10分発の「S白鳥19号」で函館へ移動中、地震に遭遇した。前日10日の「はやぶさ」で新青森まで行き、その日は現地に泊まった。本来なら「はやぶさ」の乗車体験記でも書くところだが、その後とんでもないことになってしまった。
白鳥は江差線の渡島当別-茂辺地間を走行中に急停車をした。車掌から「ただ今地震が発生したため、暫く停車します」というアナウンスが入ってがその後、情報が全くない。その間、携帯ニュースやワンセグなどで巨大地震が発生したことを乗客がキャッチ。いっきに慌しくなった。
電車が停車している場所は灯台がある岬(葛登支岬)の下あたりで切り立った斜面上だ。その下は松前国道と海が迫っている。携帯でウエザーニュースでチェックすると函館にも大津波警報が出ており、既にえりもで3メートル観測されたという情報が入っていた。
現地は16時過ぎから引き波が起きはじめた。やがて海面がいっきに上昇し、1~2メートルの津波を三度ほど確認をしたが、海面から線路までは10数メートルはあったのでそちらの心配はあまりなかった。むしろ余震で車両がギシギシ揺れ、崖の下なので転覆の方に不安がよぎった。
6時間以上、その場に停車をしたが、車掌からは情報らしい情報が入ってこない。既に夜になっている。乗客からなぜ次の茂辺地駅まで移動をさせないのか車掌に催促が入る。やっとアナウンスが入り、「この先の茂辺地駅は海抜が低いため、列車が津波に襲われる危険があり、この場で停まります」というかなり怖いアナウンスが入った。
しかし、21時頃列車は茂辺地駅まで移動をした。津波の心配が去り、救援が来るのかと思ったが、「国道は津波で閉鎖されており、外へ出ることはできません」という説明。しかし、某シニア向け大手旅行ツアーの添乗員が車掌と交渉を続けており、暫くすると大型バスが駅に横付けされた。すると50人ほどのツアー客は慌しく、降りてバスへ向かって行った。
さらに地元客と思われる何人かも車掌室から降り始めた。駅前には迎えのクルマが何台か来ている。管理人は理由を車掌に聞くと「降りるのは自己責任です。降りても津波で道路が閉鎖されているので動けませんよ」という。2時間近く車内に居たが、函館駅が2メートル近く浸水していると乗客が携帯で話している。これは夜明かしだと思い決断し、車掌に下車を申込んだ。その前にタクシー会社を調べ、茂辺地まで来れるというので、「自己責任で行動して下さい」と車掌に念を押されながら下車をした。
松前国道は特に問題なく走れた。途中、5号線が通行止めで大回りをしたが函館駅のホテル近くまで行けた。ちょうど津波が引いた直後で道路はゴミが散乱しており、ホテルも1階から水が引いたところであった。
「S白鳥19号」は結局、翌日の昼過ぎまで茂辺地に停車をし、やっと救援のバスが来たという。もし、そのまま乗っていれば、丸々24時間閉じ込められたことになる。
それにしても腑に落ちないことがある。まず、津波でさらわれる危険がある茂辺地駅までどうして移動をしたのか?ちょうど移動をした時間は函館港にもっとも大きな津波が来た時間帯である。さらに、某旅行会社ツアーの団体客を降ろしたことも不思議だ。通行止めのはずの場所に大型バスがやって来た。また、車掌が「自己責任」と何度も繰り返していたが、何が自己責任なのであろうか。
また、茂辺地での下車について全く、アナウンス説明がなかった。危険で降りてはいけないはずの茂辺地で次々と降りて行く客。矛盾だらけである。皮肉なことに、車掌には情報らしい情報が入っておらず、乗客の方が函館駅水没を先にキャッチしていた。
管理人は十数年前にも台風で「北斗」車内に10時間近く、閉じ込められたことがあるが、車掌から殆ど説明がなかった。北海道の乗客は大人しく、大らかな気質なので、あまり文句を付けないが、今回の件は生命が懸かっている問題である。車掌に情報が入りにくい現状のシステムにも問題がありそうだ。
危機管理の重要さ、特に状況説明のタイミングと仕方については、あらためて見直す必要があると感じた。JR北海道には車掌の危機管理セミナー受講などを勧めたい。
危機管理では東京電力に対して、凄まじい怒りを覚えている。管理人は原発反対論者ではないが、地震大国の日本では作るべきではないという考えだ。その理由は「絶対安全」などというものはこの世に存在しないからだ。
過去の災害データを照らし合わせながら、耐震設計をしているであろうが、過去のデータなどせいぜい数百年程度と歴史が浅く、一元的なアカデミーが提供した資料の世界だ。今回のような千年に1回クラスの地震など考慮に入っていない。中越沖地震の際の柏崎原発の教訓を生かすことはできなかった。これで東電は補償問題なども含めて倒産するかもしれない。その前に、今回の件が一区切りした段階で、「自主廃業」を申し出るべきである。
原発の危険は全国すべての電力会社に云えることである。御前崎の浜岡原発や老朽化した若狭湾の原発などあまりにも危険なものが多すぎる。今回の福島での大事故は、地震そのものよりも津波が引き起こしたようである。この世に絶対なものはない。電力会社や原発企業のこれまでの隠蔽体質が悪い方に出てしまった。
2050年に現在北海道で人が住んでいる場所の5割が無人化するという事実
2011年02月23日掲 載
国土交通省の国土審議会長期展望委員会は21日、2050年の日本の国土の長期展望の中間報告を公表した。少子・高齢化が続いた場合、現在は人が住んでいる国土の役2割は無人化すると推計。特に北海道では5割、中国、四国地方でも2割以上が無人化するとみている。一方、首都圏で無人化するのは1割に満たず地方の過疎化が一段と進行する。(2/21付日経新聞)
実はこのニュース、「地方の再生とカタストロフィ」という題で予定稿にしていた。内容はというと、今後、現在の居住地の半分がなくなる北海道はさらなる一極集中が進み、札幌を除く地方都市は都市ではなくなり、それ以外はゴースト化するといったもの。
しかし、唯一大逆転の可能性が残っていた。それは首都圏でカタストロフィ(歴史的大惨事)が発生した場合だ。大地震や原発事故など都会に住めない状況になった場合、地方への移住(避難)が加速する。たとえば首都圏人口の1割(3百万人)が地方へ分散するだけでも、地方にとってはとてつもないと特需が発生する。
特に北海道には多くの人が流入し、ウルトラC的な特需が発生し、相乗効果で多くの人が北海道にやってきて北海道を起点に日本経済が回復する-という仮想話だ。現実的には起きてほしくないが、ベストセラーになった「デフレの正体」をひっくり返すにはこれしかないのではないかと思う。
実は阪神淡路大震災が起きた1995年、北海道移住がブームとなった。時代背景としてバブルが崩壊、閉塞感が漂いはじめ、自然回帰のような動きが出始めた時にカタストロフィが起きた。同時期にオウム事件もあったため、原点帰りのような意識があったのかもしれない。しかし、大きな流れを生み出すまではいかなかった。
当時、道内経済界の重鎮が「これ(地震)が東京で起きていれば北海道へ人が流れて活性化したのに・・・」と言っておられたが、不謹慎な話だがそれは事実であろう。
以上が予定稿の内容である。しかし、ニュージーランドで大地震が起きてしまった。堂々と、「地方の再生とカタストロフィ」などというタイトルでブログは書けない。気の毒にも未だ日本人学生が生き埋めになっている。あらためて、都市型災害の怖さを見た。
東京では地震だけではなく、富士山や浅間山が噴火しただけで都市機能はマヒしてしまう。どんな災害が起きるかわからない。首都圏に国内人口の三分の一が集中していることは恐ろしい。今回、地震が起きたクライストチャーチの人口は旭川市と同程度。もし、M7以上の直下型が首都圏で起きれば行き場を失った多くの避難民が発生する。参考までに伊豆大島噴火を的中させた琉球大学の木村教授が予想した今後起こりうる地震マップを紹介しておく。
50年後に地方の2割、北海道は5割が無人化するという。リスクを避ける意味でも都会と地方がほどよいバランスで暮らすことができないものか、ニュージーランドの地震を見てあらためて考えさせられた。都市一極集中は経済だけではなく、人の命もダメにしてしまう。
「景観」とは何であろうか 深山峠・観覧車と函館・自由の女神像
2010年07月30日掲 載
昨日、「函館奉行所」がオープンしたことを東京のニュースでも報じていた。なかなかしっかりした施設のようである。ところで、同じ函館で、少し前まで自由の女神像の問題が全国紙やワイドショーなどで話題になっていた。二十間坂という元町観光地区の真上に、カニなどを売る水産会社があり、坂の正面に自由の女神像を建てた。函館では美観を損なう、函館の恥ということで、市民の間で大問題となり、最終的には水産会社が撤去に応じることになった。
このニュースを聞いて、ある事件とオーバーラップをした。昨年2月の拙ブログで紹介をしたが、上富良野町の深山峠に観覧車を設ける問題である。倉本聡なども参加して、美瑛・十勝岳連邦の美観を損なうということで地元で反対運動が起きた事件だ。
管理人のスタンスとしては、最終的な判断は観光客に仰いでもらうのがいちばんではないかということである。勿論、地元の気持ちは理解できるが、それが環境に相応しいか否かは第三者が決めるのがいいのではないか。観光客が沢山乗って、よかったと言えば残す。乗らずに評判が悪ければ撤去をする。それでいいと思うがいかがであろうか。観覧車など壊すのは簡単だ。
深山峠の場合、自然景観が損なわれという理由だが、隣にあるトリックアート美術館の方がむしろ異様である。何であの場所にと思うが、慣れてしまえば違和感はかんじなくなってしまうから人間の感性は不思議だ。
深山峠から見る美瑛丘陵などももともとは人が開墾して出来上がった景色なので、本来の自然景観ではないとも云える。函館の元町地区も同時期に教会や領事館、墓地などが出来たのではなく、年月をかけて、今の景観が誕生している。戦後にできた函館山ロープーウエイが誕生した時は大変な違和感があったのではないであろうか(函館山にはケーブルカーがあっていると思う)。
東京のお台場にも自由の女神像がある。最初、見た時は何でこの場所にということで、違和感を感じたが今はすっかり景色に溶け込んでいる。「景観」とは時間と共に馴染んでいくものだと思う。
それでは函館のあの女神像はどうか?確かに異様である。特にいちカニ屋の販促物である。梅宮辰夫の漬物人形と変わらない。
管理人の最初の反応は深山峠の観覧車と同じで不快感があったが、途中から、「ちょっと待てよ」というスタンスになった。なぜなら、管理人はあの場所のことを知っている。つまり、先入観で見ているのだ。古い景観地区に異様な女神像が登場→悪趣味・景観破壊→函館の恥・観光客には見せられない-こんな思考図式が浮かぶ。地元の方も概ねそんなところであろう。
しかし、街を歩くと女神像以上の異様な物体を頻繁に見かける。おもに行政などが設置した、彫刻やオブジェの類で、商店街や観光ロードなどに何食わぬ顔でいる(函館市のことを指しているのではなく、あくまでも全国的な一般論)。多くが有名な芸術家に依頼したもので、とんでもないお金がかかっている。管理人はむしろ街角で見かける彫刻の方に違和感をかんじる。中には素晴らしいものもあるが、通行人の多くは御上がつくったものだからということで、通り過ぎて行くであろう。
行政が設置した彫刻には文句は言わないが、民間業者が販促のため(?)に設置したものには文句を言う。しかし、観光地にある梅宮辰夫人形やコーネルサンダース人形にクレームを付けたという話は聞いたことはない。辰ちゃん人形は以前、鎌倉大仏の正門にある土産物店に置かれていた。
函館の自由の女神像は確かに異様である。しかし、函館の歴史も知らない外国人や初めて訪れる日本人がこれを見たら、どう反応するかはわからない。もし、函館の町が自由の女神像で溢れたらどうであろうか。大顰蹙(ひんしゅく)であろうが、これはこれで見てみたい気もするのだ。
やはり、最終的な決定権(判断を仰ぐ)は先入観のない観光客にあるのではないか。そういう意味ではもう少し「放置」して、観察していれば「景観侵害」かどうかわかったと思うが。撤去はいつでもできる。
最後に深山峠の観覧車は結局「アートビュー観覧車」として、昨年4月に開業。今では町の新しい観光スポットとして賑わっているという。函館の女神像とは単純に比較はできないが、「景観」とは何であるか考えさせれた問題である。
30数年お世話になった品川駅名物の「お好みそば」が閉店、北海道の美味しい立ち蕎麦はどこか
2009年12月15日掲 載
品川駅東海道本線下りホームに昔から立ち食いそば屋がある。駅弁で有名な「常磐軒」が経営しているが、品川駅構内に数軒ある同系列の中でもここは異色の存在だ。名物メニューにお好みそば(うどん)440円というものがあり、他所では見たことがない類の駅そばなのだが52年の歴史に幕を閉じることになった。
内容はカウンターの上に具が入ったケースが置いてあり、その中から好きなものを選んで蕎麦に乗せて行くというもの。長ねぎ、天カス、油揚げ、わかめ、鰹節が開業当初のトッピングメニューであったが、最近では種類が増えて、ちくわ天、ゴボウ天、野菜の煮付けなどバイキング形式にこれでもかと出てくる。同じ常盤軒でも外れにある東海道線ホームにわざわざ足を運ばないと食べられない特別メニューである。
しかし、この店が16日水曜日で閉店することになった。東海道線ホームの改良工事のためらしく、復活の予定はないという。管理人は中学・高校が品川駅利用で、この東海道線ホームを毎日利用していた。部活の帰りなどは必ずといっていいほど、この立ち食いそばのお世話になった。週に2,3回は最低食べていたので、学生時代だけで数百回は通っている。
当初はお好みそばはなく、普通のそばだったが、1978年か1979年頃にトッピング・バイキング形式のものが登場した。確か「ブルータス」誌に有名なアートディレクターがお好みそばを絶賛していた記憶があり、嬉しかった思い出がある。
今日、久しぶりに立ち寄ってみたが、特に行列している訳でもなく、いつもと同じ光景であった。但し、店内での写真撮影は禁じられており、残念ながら外からの写真となった。最近はJR直営店舗が増えて、立ち食いそば屋も駅弁屋と共に全国的に減っている。特にホーム上のそば屋は激減している。
北海道でもホームにある立ち食いそばは札幌や函館など除いて見かけなくなってきた。以前は倶知安駅にある小さなそば屋(清水立売商店)が好きだったが、今は構内のみである。あの有名な音威子府も待合室にあるだけで寂しくなった。
道内の美味しい立ち食いそばはどこであろうか。すぐにこことは出てこないが、ユニークなところでは、遠軽駅のあいがも蕎麦。特急だと3分停車だが急げば買いに行ける。ビールや酒も置いてあるところがよい。留萌駅のにしんそばもいかにもそれらしい。駅そばではないが、特急「北斗」車内で注文を取る長万部のもり蕎麦はお気に入りだ。茹でたて蕎麦と鶉の卵が合う。かにめしに隠れた裏人気メニューである。
頑張れ、立ち食いそば!!
シーニックバイウェイのPR誌が登場、認知度アップと共に中身の充実を求める
2009年10月28日掲 載
道内の景観に優れたドライブルートを観光振興に生かすシーニックバイウェイ支援センター(札幌市)は、各ルートの観光情報を紹介する無料誌を発行した。道内の「道の駅」やレンタカー会社などで約15万部を配る。シーニックバイウェイを地域活性化に生かす各団体による沿線のお薦めスポットを掲載。ドライバーが地域に立ち寄るきっかけとする。(10/27付 日経新聞北海道版)「シーニックバイウェイ」は、支笏洞爺ニセコルートと大雪・富良野ルートの2つのモデルルートを2003年実験スタート。2005年北海道開発局などを中心に、「シーニックバイウェイ北海道推進協議会」を設置し、モデルルートに東オホーツクシーニックバイウェイを加えた3ルートを指定。2006年には宗谷シーニックバイウェイ,函館・大沼・噴火湾ルート、釧路湿原・阿寒・摩周シーニックバイウェイを、2008年には萌える天北オロロンルートを加え、現在7ルートを指定している。
このシーニックバイウェイ、当初管理人は”シーニックハイウェイ”と聞き間違えていたが、未だにピンと来ないのだ。北海道を代表する景観ルートを指定したものだが、これまでおすすめドライブコースなどで紹介されたよく知られたルートばかりであり、あらためてそこを括る意味が今ひとつわからなかった。背景には道の駅や道路整備など政治的な事情もあるかもしれないが、わざわざコースを指定して、そこを辿ることで利用者、沿道地域の経済効果にどういった恩恵があるのか今ひとつ疑問であった。
シーニックの活性にはもっと民間の力が必要である。地域・ルート・ロケーションありきではなく、そこにある資源を観光誘発にいかに有効に使えるか、具体的に引っ張り出す力がもっと求められているはずだ。これまでは観光案内のレベルで中身が濃くなかった。
ルート紹介から入るのも重要だが、たとえば、沿道の魅力的な宿、グルメ、隠れたテーマなどこれまで意外に気付いて意いなかった個の魅力から入って紹介するのもひとつの手法ではないか。
今回、無料誌の名称は「BYWAY(ばいうぇい)」で年に3回発行する。このほど秋号として、地元の自然を楽しめる散策コースや、一般的には知られていないが、地元お薦めの料理店などを紹介した。12月配布の冬号では各ルートにある温泉を特集する予定という。北海道は観光関連のフリペ天国なので埋没しないことを祈るのみだ。
このシーニックバイウェイ、米国発祥でだが、北海道を除き日本ではまだまだ知られていない。指定ルートは北海道観光初心者には魅力的なコースが多いので、海外を含め道外でも情報発信にも期待をしたいところである。
「岩見沢新聞」が廃刊へ、消え行くロコな郷土紙
2009年08月06日掲 載
夕刊紙「日刊岩見沢新聞」を発行している岩見沢新聞社(岩見沢、矢部一頼社長)が新聞事業から撤退、31日に廃刊することが3日分かった。部数の頭打ちや広告収入の低迷が原因とみられる。1949年創業で81年に株式会社化。2ページ建てで、ピークの2000年前後は岩見沢市内で約3500部を発行したが、その後、2500部程度まで落ち込んでいた。(8/4付 道新)
「岩見沢新聞」は岩見沢を中心に南空知で発行をしている郷土紙である。今後は、滝川市を中心に「プレス空知」を発行する空知新聞社に社員などが移り、今秋以降、新たに「プレス空知岩見沢版」を創刊する予定だ。
新聞には全国紙(朝毎読)、ブロック紙(道新・中日・西日本など)、地方紙(道内では勝毎・釧路・苫小牧民報・室蘭民報・函館)などがあるが、道内にはこの他、新聞協会に非加盟の郷土紙と呼ばれるものが多数ある。実際の数はわからないが、週刊も含めれば40紙以上はあるのではないか。
管理人は道内各地を訪れると、この郷土紙を記念に買う。おもに駅のKIOSKだが、あまりにマイナーだと扱っておらず、宿泊した宿のロビーに置いてあった前日の新聞をいただくことがある。道内約20紙はコレクションをしており、アルバムに挟んであるが、「岩見沢新聞」は見たことがなかった。
地方新聞が於かれている状況は厳しい。最近では元北海タイムスの「札幌タイムズ」や「オホーツク新聞」、「網走新聞」などが休刊となっている。「岩見沢新聞」のような2ページ立ては多いが、その広告数から考えて、経営が成り立つのかいつも疑問に思っていた。
道新でさえも部数をかなり落としている昨今、セカンドペーパーを取る人も減っているであろう。郷土紙を発行している地域に行き、その新聞を見せても、そんなもの知らないという人が多いのが現実である。こういった郷土紙の方がインターネットとの相性がよさそうに思われるが。
【参考】「北海タイムスが前身の「札幌タイムス」が休刊 厳しい地方紙の現状」
「豊水すすきの」の車内放送は変? だったら他にもあり
2009年06月24日掲 載
「次は~豊水すすきの~」-。札幌市営地下鉄の車内放送で、東豊線豊水すすきの駅をアナウンスする際のアクセントが、このほど変更された。「ほう」にアクセントが置かれていたが「ほうすい」と、平たんな呼び方に。地域住民からの要望を受けての変更だ。 (6/23付 道新)
東豊線はあまり乗ることはないので気付かなかった。語頭の「ほう」にアクセントが置かれるのはおかしいというが、管理人は他の駅でも違和感を感じていた。
たとえば「大通」。やはり語頭の「お」にアクセントが来て、最初はおかしな響きに聞こえた。同様に、住所表示を示す、「南○条 西○丁目」でも「西」の「に」に高いアクセントが来る。添付したyoutubeで「豊水すすきの」の発音を聞いたが、「大通」と同じパターンに聞こえる。「豊水」は語頭を上げないのであろうか。
管理人もいつのまにかこのアクセントに慣れてしまって、タクシーに乗る時も「南4条の西3丁目」などと西のアクセントを高くして、郷に入れば郷に従っているが。
北海道のイントネーション自体にそういう傾向があるが、札幌は顕著だと思う。札幌市民の皆さん、語頭を上げる独特のアクセントにお気づきかな?
六花亭が20年連続有給休暇100%を達成 今の時代だからこそ価値あるモデルだ
2009年04月02日掲 載
六花亭製菓(帯広、小田豊社長)は一日、全従業員が二〇〇八年度まで二十年連続で有給休暇を100%取得したと発表した。北海道労働局によると、全国でも極めて珍しい例という。 (4/2付 読売新聞)
世知辛いご時勢の中、とてもいい話である。六花亭の年間休日は107日で完全週休二日ではないが、年間有給は最大20日間取得できる。本来、有給休暇は消化が労働者の「義務」であり、取得しなくてはいけないのだが、景気の悪化と共に形骸化されてしまった。労働法が改善された80年代後半がウソのようである。
管理人は会社員時代、広報担当の時があったが、広報業務は会社の顔(模範)であるので、規則は全部守るように云われ、有給休暇はほぼ取得した。上司や同僚が自由に休みを申請できれる環境であれば、遠慮することなく権利が行使でき、職場の風通しもよくなる。
有給休暇の取得増加は観光産業にとっても大きなプラスだ。最近は有給が取りにくい環境なので週末に宿泊施設が一極集中的に込み合う。そして、平日はガラガラ。その落差が極端であり、頭を抱えている宿も多い。もし、平日の休みが増えれば観光産業にとっても恩恵で、利用者から見ても格安で、ゆとりがある旅ができる。
何度か拙ブログで旗日の連休化よりも有給休暇の取得アップの方が観光産業だけではなく、経済全体の活性につながると述べてきたが、ワークシェアリングの面から見ても価値があることだ。
六花亭は企業理念がしっかりしており、ぶれないところが消費者に安心感を与えてくれる。数年前、札幌駅エスタのお土産コーナーで、六花亭の店員だけ髪の毛がみな黒色で、染めていないことに気付いた。ちょうど茶髪全盛の頃であったが、他の六花亭店舗を覗いてもみても全員黒髪で、何気ないことだが、企業ポリシー・誇りのようなものをかんじて安心したものだ。
今回の有給休暇取得100%の記事でもそうだが、企業としての一貫性が外部に伝わり、いい会社というイメージが醸造されてゆく。ブランドは一刻一夕で作れるものではなく、積み重ねの結果である。
こういう時代だからこそ有給は取得する。それは雇う側、雇われる側にとってもプラスにはたらくはずだ。いかがであろうか。
ちなみ2006年度の有給休暇取得率の全国平均は47%である。
北海タイムスが前身の「札幌タイムス」が休刊 厳しい地方紙の現状
2009年03月08日掲 載
札幌圏を中心に週刊紙「札幌タイムス」を発行してきた北海道二十一世紀タイムス(札幌)は六日、同紙を休刊すると発表した。急速な景気後退による資金繰りの悪化が引き金となった。 (3/7付道新)
札幌タイムスの前身は、道新に次ぐ、道内セカンドペーパーであった「北海タイムス」であったが、慢性的な赤字が続き、京都の専門学校オーナーに乗っ取られて現場と紛糾、結局倒産に追い込まれた経緯がある。どうしてタイムスを買収したのかなど今でも不可解な事件であった。
その後、旧経営陣などが「フロンティアタイムス」を札幌、旭川で発行。当初、キヨスクなどでも販売していたが、2001年に「札幌タイムス」に変更し、日刊から週刊に移行していた。週刊になった頃は札幌市内のホテルなどでも無料配布しており、キヨスクなどからも次第に消えるようになっていた。
管理人は判官びいきの性格故か「札幌タイムス」を応援していたが、創刊当初から厳しいと見ていた。
このところ新聞の退潮が伝えられ、地方紙夕刊の廃刊が相次いでいる(道内では毎日新聞が夕刊を廃止)。2大新聞でさえも広告収入が大幅に減っており、今後、有料新聞の発行は難しいかもしれない。
タイムスは旭川でも一時発行したが、旭川は地元紙が以前からないことろだ。どうしてであろうか。
千歳は今日も雪だった 異常気象に振り回された三日間
2009年02月23日掲 載
昨日から北海道へ来ている。
当初、21日(土)に札幌入りする予定であったが、”暴風雪”という天気予報だったので、予定を早め、前日の夕方の便に変更をした。ところが、その日は午後から千歳は湿った雪のため、滑走路が閉鎖され、午後から全便欠航になってしまった。羽田空港へは無駄足を運び、結局、翌21日は予報通りで荒天で、午前中は飛ばず、大混乱のため、日曜日にふたたび変更した。
2日続けて千歳の閉鎖は珍しいが、何と日曜日も別の低気圧が接近して、除雪のため、大幅な遅れ。管理人は乗ったスカイマーク機は1時間遅れの出発、途中、千歳降雪のため、花巻上空で30分以上旋回、羽田引き返しの悪夢がよぎったが、大揺れのなか2時間半近くかけて着陸。しかし、これでは終わらない。スカイマーク機は駐機場からバスに乗るが、そこの除雪がされておらず、今度は誘導路で30分止まってしまった。
実は飛行機の抑え(?)に北斗星の寝台券も購入してあったが、こちらも20,21日と2日続けての運転取り止め。珍しいケースだ。
3日続けての受難。それにしても今年は千歳がよく閉鎖になる。よく春になると爆弾低気圧が発達して道東に嵐をもたらすことはあるが、今年は頻繁に低気圧が西部で発達し通過する。冬型気圧配置の雪と違い、湿った重い雪のため、除雪に手間取るらしい。やはり温暖化の関係であろうか。
こんな時、北海道新幹線があったら有難いな、と思った。(管理人は推進派というわけではないが)
大阪万博終了39年後に見た「月の石」
2009年02月08日掲 載
37年前の今頃(1972年)は札幌オリンピックで盛り上がっていた。当時、小学校4年生であった管理人は、トワエモアの「虹と雪のバラード」を同級生と口ずさみ、滑り台では、「笠谷決まったー」などど叫びながらジャンプごっこをしていたものだ。小学生には高価だった公式ガイドブックを買ったが、札幌の地に思いを馳せたいた。
当時は国民的なビッグイベントが続いていた。1964年の東京五輪に始まり、72年の札幌、その間、1970年には大阪万博が開催、2回の五輪と万博が高度成長日本の3大イベントといってよいであろう。
前ふりが長くなったが、大阪万博を懐古する「1970年大阪万博の軌跡」特別展が上野の国立科学博物館で開催(1/22~2/8)されている。テーマに惹かれ、7日に足を運んでみた。
今回、会場には人間ごと洗ってしまうサンヨーの”人間洗濯機”や夢のワイヤレホンなどが展示されていたが、もっとも人だかりが出来ていたのが、あの「月の石」である。月の石は大阪万博当時、アメリカ合衆国館にアポロ宇宙船が採取したとされるものが展示されていた。万博の最目玉であり、見学するには数時間待ちは当たり前であった。
その月の石を39年経って見ることができた。当時の石と比較するとだいぶ小粒だが、月の石には変わりない。こんなものを見るために炎天下のなか半日も並んだ訳だが、当時は行列の話題の方が有名になってしまったものだ。しかし、今回の石、万博時とは違うもののようで、後から知ったが、国立科学博物館で展示されているらしい。
管理人は夏休み期間中に万博へ行ったが、アメリカ館やソ連館などの人気パビリオンには入ることができず、人出が割と少ないニュージーランド館で羊と戯れ、インド館では生まれて初めてインド料理を食べた記憶がある。
先日、万博へ行った同世代3人と話したが、共通しているのはアメリカ館は混雑のため入場できず、代わりに(?)象牙海岸共和国館に入ったという話題で盛り上がった。ホントに暑い会場であった。ちなみに新幹線が往復取れずに、片道は臨時夜行(出来たばかりの12系客車)で行った覚えがある。
軌跡展には「EXPO2015」のポスターが貼ってあった。それに合わせて未来の携帯電話などが展示されている。老夫婦が大阪万博の展示物と勘違いをして感嘆の声を上げていたが、これはただ今公開中の映画「20世紀少年」のプロモーション用のもの。タイアップというわけだが、紛らわしい!!
それにしても日本人全員がひとつのイベントに熱中できる時代は、70年代高度成長の終わりと共に無くなってしまったと思う。今見ればダサいけど、無邪気で、素敵な時代であった。
日本最東端のJAZZ喫茶 根室「サテンドール」、守ってほしい地方の喫茶店文化
2009年02月02日掲 載
最果て根室に日本最東端のジャズ喫茶がある。場所は根室のほぼ駅前。あのエスカロップで有名な「ニューモンブラン」の前あたりに位置する。店の名前は「サテンドール」。ジャズ喫茶としては非常に正しい名前だ。
管理人がサテンドールを訪れたのは昨年の師走。根室駅を降り立つとまばらな花咲線乗客はすぐに消え、残るは客待ちのタクシーと管理人のみ。いつもの根室駅前の光景である。以前は頻繁に通った根室だがJRでの訪問は7年ぶり。店があるかどうか不安だったが全く変わらない姿があった。
演歌が似合いそうな根室だが実はジャズが大変盛んな町で毎年、日野皓正さんなどがコンサートを開いている。根室が好きで通うようになったのが1990年。それ以来、釧路行きの列車を待つ間、必ずといっていいほどサテンドールで一服させていただいていた。それほどジャズが好きという訳ではないが、JAZZ喫茶は大好きである。
訪れた日は何と開業30周年の翌日であった。前日にお祝いのパーティがあったようで、その模様は地元紙の根室新聞で紹介されていた。1978年の開業以来、谷内田ご夫妻が切り盛りされているが、とても素敵なお二人である。数えるほどしか行っていない管理人のことも覚えていてくれた。
人口減少が進み、駅前の閑散が進む根室で30年もの間やって来たというのは敬服に値する。さらに根室のジャズ文化を途絶すことなく、育んでいることも素晴らしい。
あらためて喫茶店は地域の文化であると思った。根室のような小都市の駅前でこういった店を見かけると救われたような気分になる。20年近く前までは旅をしていると道内の小さな都市にもいい喫茶店がった。室蘭、美唄、網走・・・・再訪すると既になくなっているところも多い。「サテンドール」には二人三脚で、喫茶店とJAZZの灯を根室のためにも守ってもらいたい。
♪しろいこいびとぉ~♪が東京で流れた
2009年02月01日掲 載
北海道限定商品の代表といえば「白い恋人」であるが、あのCMも北海道限定である。ところが2/1、15:30~TBS(HTB系)でオンエアされた「W杯ジャンプ大倉山大会」のスポンサーに白い恋人が。ジャンプ大会中継の時は、伊藤組やFPの家など道内限定CMが東京(全国)でも流れることはあるが、石屋製菓ははじめてではないであろうか。
しかし、ジャンプ大会は荒天で中止に。
CMの最後に登場する女性コーラスによる御馴染みの♪しろいこいびとぉ~♪が東京で聴けるとは。週末は北海道に行く用事があったが延期となっていたので、余計に感激!!
丸井今井の民事再生、道内地方都市の衰退に拍車をかけるか
2009年01月30日掲 載
釧路では丸井閉店後に入る予定であった商業施設「kute」だが看板のみでオープンされていない
丸井今井が29日、民事再生法の適用を申請した。昨秋以降の急速な個人消費の冷え込みで、販売不振に拍車がかかり、法的整理の選択に追い込まれた。記者会見した畑中幸一社長は「長引く消費不況で経営は芳しくなかった」と明かした。販売回復の見通しが立たないなか、金融機関との交渉も難航。資金繰りに行き詰まった。(1/30付 日経北海道版)
予てからその噂はあったが天下の「丸井さん」も民事再生の羽目になってしまった。バブル期の無理な投資による出店や他事業への参入計画で火ダルマに。1996年に創業家一族は追放されたが、後押しをしていた拓銀が1997年にまさかの破綻。結局、その後遺症を引きずったまま今回の事態を迎えた。
その間、大丸の出店などで中心街が大通周辺から札幌駅へ移動、若者や女性客離れが進んだ。マーチャンダイジングに秀でた伊勢丹中心による再建支援が始まり、最近では「ジュンク堂書店」の出店など頑張っている印象はあったが、この百貨店不況では埒(らち)があかなかったであろう。
思うに北海道の長いトンネルは未だに”拓銀ショック”から抜け出せていないのではないか(北洋の大赤字も間接的には関与している)。
今後、丸井今井はどうなるか。これで伊勢丹色がさらに強まることが予想される。札幌店以外(函館・室蘭・旭川)は閉鎖になるであろう。これまで何度かこのブログで百貨店の閉店が地域経済に与える影響について書いてきたが、先に閉鎖された苫小牧、小樽、釧路などは中心街の空洞化に拍車を掛けている。函館(五稜郭)、旭川駅前にある2店舗はまだマシの方だが、こちらも閉まれば同じ運命を辿るであろう。五稜郭は西武、つい最近には「グルメシティ」が最近閉まったので危機である。
百貨店ビジネスは流通がこれだけ多様化した現在、地方、都会に限らず大変難しい局面を迎えている。「百貨」というこれまでの役目は終わっていると云っていいであろう。しかし、地域コミュニティや文化面、勿論雇用も含めて無くしてはならないものだ。
帯広ではローカルながら地場の「藤丸」が健闘している。これは地域に根付き、愛されている証であり、十勝の農家の奥さま達は、藤丸で農閑期にブランドものを買うのがステータスだと聞いたことがある。昨年、丸井今井が閉鎖され百貨店が街から消えた釧路では、藤丸への送迎バスが運行され、乗り切れないほどの盛況であった。地元への愛着が強い十勝ならではと云える部分もあるが、百貨店を街のランドマークとして地域全体で応援できれば生き残ることは可能である。
これで札幌店は「伊勢丹丸井札幌店」になってしまうのであろうか。伊勢丹は好きなデパートであり、素晴らしい商品構成力を持っているが、地域に愛される百貨店として残ってもらいたいと祈るのみである。
札幌ロビンソン閉店、眼鏡店での思い出
2009年01月19日掲 載
ロビンソン百貨店の札幌店が18日、閉店した。開店前には約700人が列を作り、買い物客ら札幌・ススキノを象徴する店との別れを惜しんだ。同店は前身の「札幌松坂屋」が74年6月に開業。79年にイトーヨーカ堂が業務提携して「ヨークマツザカヤ」となり、94年3月からロビンソンとして営業した。地上8階地下2階で営業していたが、業績不振で02年4月から地上2階地下2階の4フロアに縮小。昨年5月、営業の継続が困難と判断された。(1/18付 毎日新聞北海道版)
管理人は松坂屋時代は知らないが、「ヨーク」時代の1989年頃から知っている。ススキノ交差点に立地し、日中は静かだが、5時を過ぎた頃から百貨店周辺は俄かに活気づいてくる。6時を過ぎると待ち合わせをするサラリーマン、同伴のホステスなどいろいろな人種が正面入り口にたむろしており、ススキノの定番光景であった。最近は待ち合わせをする人も以前より多くはなく、店内も以前に増して閑散としていた印象だ。
ここでは忘れられない思い出がある。十数年前、ホテルでメガネを踏み潰してしまった。とめ具が外れたため、レンズは外れ、柄も取れて、さらに曲がってしまって再起不能のようである。管理人は強度の近視のために、これがないと旅行や出張での移動は無理だ。困った。眼鏡屋がないか探したが、とりあえずロビンソン(当時ヨーク)上階に店があることがわかり、行ってみた。柄が大きく曲がっており、作り直す覚悟でいたが、すぐに作れるのかもかわらない。
店員さんにメガネを見せると「何とかやってみます」ということで、相当時間がかかったかとは思うが、ほぼ元通りの姿に戻してくれた。料金はと聞くと「結構ですよ」ということ。何だか申し訳ない気分で丁重にお礼を言って帰った思い出がある。買った店ならともかく、そこまで丁寧にやっていただくと、遠くてもそこで買おうという気持ちにさせてくれる。
この件があって以来、少し長めの旅行・出張やレンタカーを借りる時は予備のメガネを持っていくことにしている。
札幌のメガネ店は途上国への眼鏡ボランティアで有名な富士メガネがあるが、皆さん奉仕精神に溢れているのであろうか。
「エンペラー」の青木商事が破綻、道内繁華街の衰退が顕著に
2008年12月16日掲 載
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写真上:釧路繁華街象徴であった「銀の目」と「香港」現在は空き地(’92頃撮影)・写真下:「キャバレーエンペラー」閉店間際の頃('06.10)
札幌・ススキノを中心に飲食店を展開する青木商事(釧路、青木一晃社長)が札幌地裁から破産手続き開始の決定を受けていたことが八日、分かった。東京商工リサーチ北海道支社によると、負債総額は約十六億円。かつて大型キャバレー「エンペラー」を経営し、ススキノの代表格と見なされてきた同社の経営破たんは、繁華街の不振の表れとも受け止められている。 (12/9付 道新)
ちょうど釧路に滞在している時に青木商事の倒産を聞いた。釧路は青木商事創業の地であり、かつては「香港」や「銀の目」などの大型キャバレーがあり、1993年頃まで営業していた記憶がある。大型店舗はなくなったが、起業の地へのこだわりか不景気の釧路で最後までクラブやスナックを営業していた。「銀の目」は1958年開店なのでちょうど50年の節目を迎えた年に破綻となった。
管理人は全盛期を知らないが、毎晩一流歌手が東京から招かれ、釧路の夜は不夜城であったことなどは、今年四月に亡くなられた作家でもある八柳鐵郎さん(青木商事専務)の著書にもしばしば登場する。八柳さんは倒産を知らずに先立たれたが、これでよかったのかもしれない。
ススキノ名物であった「エンペラー」も2年前に閉店した。このあたりが潮時というかひとつの「使命」を終えたのであろう。日本最大のマンモスキャバレーの閉店は、イコール盛り場・繁華街の衰退の象徴でもある。キャバレーに限らず、このところクラブ・スナックなど大人の居場所の衰退が目立つ。
北海道では官々接待も禁止され、バブル崩壊以降の長期低迷はお酒の飲み方自体を変えてしまった。大人はススキノから離れ、その後、中心になっていた若者たちも他所へ行くようになった。最盛期、5千軒といわれた飲食店も3千軒台に落ちたといわれている。以前、「エンペラー」があった土地には「メルキュールホテル」の建設が進んでいる。これも時代の象徴か。
そういえば、最近の若い女の子の間ではキャバクラ嬢が憧れの対象になっている。最初はごく一部かと思ったが、管理人の知人の堅気の大学院生もやたらキャバクラ嬢に憧れているようなことを云う。時代が変わった。クラブホステスに憧れる子などは皆無であろうか。
キャバレーのような大箱の復活は難しいであろうが、大人が寛げ、遊べる文化は是非守ってもらいたい。今の酒の飲み方、遊び方は余裕が無さ過ぎる。この世知辛いご時勢では大変なことだが、ますますしみったれた街→国になってしまう。
【参考】過去拙ブログ「八柳鐵郎さんの思い出」
「ススキノの顔、「エンペラー」が閉店」
大地震震源地の上空で出くわした不思議な体験
2008年07月03日掲 載
6/27より7/2まで道内各地を回ってきた。「北斗星」で札幌へ入り、その後JRとレンタカーで川湯温泉-弟子屈-標津ー釧路-札幌とまわった。道東は久しぶりであったが、太平洋側の最高気温が連日14℃以下と東京の真冬に近いような寒さ。札幌は25度以上の汗ばむ気候であらためて北海道の広さを実感した。
また、サミット直前ということで札幌や千歳空港周辺などを中心に道内は戒厳令のような物々しさ。全国各地から来た警察車両と警察官でまるで警察の見本市のようだ。6年前のワールドカップサッカーとはまた違う不思議な高揚感をかんじた。
ところで千歳から東京へ向かうスカイマーク機で面白い現象に出くわした。昨日2日は北海道から関東まで上空は快晴、日本海の飛島・粟島までもくっきり見える全パノラマ状態の順調なフライトであったが、岩手・宮城大地震の震源地付近(一関上空)に差掛かった時だ。
上空からも巨大崩落の現場や震災ダムが見え、窓から注視していた時、突然激しい揺れに襲われのだ。すぐにシートベルト着用サインが出たが、点灯した途端に激しい揺れは止まった。激しく揺れたのはその地点一ヶ所のみであり、不思議なかんじがした。栗駒山から飛行機が飛んでいた一関市付近のみ気流が悪く、揺れを起こしそうな薄い雲があらわれたのだ。仙台平野上空ではよくある現象だが、これほど局所的で、一瞬の激しい揺れは経験したことがない。先日、鳴子温泉からの地震雲の話を書いたが、何か意味がありそうな気がした。
宮城・岩手内陸大地震 鳴子温泉からの地震雲
2008年06月19日掲 載
宮城・岩手内陸地震から5日目が経過した。この地震、被災地周辺を何度も訪れているのでひとごとではない。管理人は鳴子温泉(大崎市)に7年前からプチ湯治を兼ねて年2回ほど訪れているが、その際、レンタカーで栗駒周辺の湯めぐりに出かけていた。
被害がひどかった栗駒山周辺は宮城・岩手・秋田の3県にまたがり、良質な温泉地が点在する。特に旧花山村は花山温泉、温湯、湯の倉などがある人気の秘湯エリアである(今回死者が出た駒の湯は旧栗駒町)。
今回、駒の湯で亡くなられた宿泊客2名は「くりでん」の廃線保存の会合で来た鉄道博物館学芸員と栗原市のマチづくりをされている地域プランナーの方である。お二人とも管理人とは接点がある職業なのでひとごとではないかんじだ。
実は昨年の暮れ、栗駒高原鉄道の廃線跡の写真を撮りに行き、鉱山博物館を見学、その足で花山温泉へ日帰り入浴をしている。駒の湯は訪れたことはないが、実は次回の鳴子湯治の際に訪れたいと思っていた。また、今朝のニュースではランプの宿として有名な湯の倉温泉が震災ダムの影響で浸水が進んでいる。6年前に訪れたが、大変ショッキングな光景であった。
そういえば管理人が地域プランナーの仕事をしていた際、頻繁に宿泊した八雲町の見市温泉も明治時代に土石流の被害に遭い、数人が亡くなくなり、宿の場所を変えたとご主人から伺ったことがある。渓流沿いにある山峡の一軒宿だが、今回、被害に遭った温泉と似たような環境である。
自然の前では人間は無力である。管理人は地震予知に興味があり、宏観現象(地震雲や動物の異常行動・大気イオンの変動や磁気波など)を観察したり、関係するサイトをよく見ているが、今回の地震、どこかで大きいのが起きそうだという前兆は各所で捕らえていたが、それがいつ、どこで、どのぐらいの規模で起きるかまでは特定できていなかった。
現在の地震予知は殆ど不可能に近い状態。東海地震は予知できることになっているが、あれは学者が研究費欲しさに「予知できる」ことにしてしまったに過ぎず、実際は不可能であろう。現状では予知よりも、今回多少は役に立った緊急地震速報などアフターケアの充実が先決である。
鳴子温泉の東多賀旅館の女将のブログを読んでいると、地震当日、栗駒山方面に渦巻き状の雲が現れたと書かれている大変、興味深い記事をみつけた。
抜粋すると「それから地震予知に繋がるかどうか解かりませんがお客様が地震の起きる3時間ほど前の朝5時半ごろ栗駒山方向上空の雲を携帯電話で撮影されていました。真っ黒い雲と真っ赤な雲が重なって竜が昇るような恐ろしげな雲です。」とある。
竜が昇るような雲は阪神大震災の直前にも震源地の真上で確認されている。磁気が関連しているといわれているが、直前に発生するタイプの地震雲であろうか。
あらためて亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方にお見舞いを申し上げます。
【参考】秋田岩手の温泉施設への地震の影響一覧 「温泉ニュースブログ」より
【参考】鳴子・東多賀温泉のブログ「乳白色の温泉より愛をこめて」
毎日新聞が道内の夕刊を廃止、夕刊の存在意義とは?
2008年05月14日掲 載
毎日新聞社が道内での夕刊発行を8月末でやめることについて、同社北海道支社は13日付の紙面で正式発表する。(5/13付け朝日新聞より)
毎日新聞の北海道版に関しては、かねてからいろいろな噂があった。現在、道内で夕刊は札幌圏を中心に旭川、小樽、室蘭などで発行されているが、発行部数が今年3月で約1万4千部(ABC協会調べ)、2006年と比べて約4800部減少している。
ちなみに毎日新聞の朝刊は約6万8千部、道新が約120万部なのでそれと比べると少なさがわかるであろう。また、夕刊紙で比較すると道内地方紙の十勝毎日新聞が約9万部、それと比較しても6分の1以下である。
毎日新聞webサイト「大盛り北海道」はよく見るが、ニュースボリュームは少なく、手薄なことがわかる。夕刊に関しては、東京版でも読み出がなく、広告収入を考えるとよくここまで持たせたというかんじである。広大な北海道で輸送費や配達委託費だけでもバカにならない。撤退はいたし方ないことであろう。
読売や朝日でさえもガリバー道新の前には太刀打ちできない。まして、新聞全体の売り上げが落ちて、道新でも夕刊はかなり部数を減らしている。産経はだいぶ前に夕刊を廃止したが、webが発達した現在、夕刊そのものの存在意義が問われる時代かもしれない。
八柳鐵郎氏の思い出
2008年04月29日掲 載
少し前の話で恐縮だが、どうしても触れたいことがある。
(以下4/22付け道新記事より)
札幌・ススキノを長年見守り続けた、作家の八柳鐵郎(はちやなぎてつろう)さんが十九日、七十六歳で亡くなった。豊富な人生経験から多くの人に慕われ、ネオン街をこよなく愛した「ススキノの生き字引」。二十一日に札幌市内で行われた通夜には約四百人が訪れ、死を惜しんだ。管理人は八柳さんと小さな交流があった。十数年前、たまたま八柳氏の著書を手に取った。北海道へ行った際は地元の出版物をまとめて買って帰るが、その時、めぐり合ったのが道新から発行されている著書だった。八柳さんは、二〇〇六年に閉店した老舗キャバレー「エンペラー」などを経営する青木商事の専務や相談役を歴任。「年末の書き入れ時などには、エンペラーの入り口前に立ち、自ら客の出迎えをやっていた」とすすきの観光協会の篠田政一会長は言う。
樺太生まれ。戦後引き揚げし、食糧難や貧しさを経験した。それだけに、地方から札幌に出てきたホステスには親身になって相談に乗った。
「金をためろ。金のないやつは不幸になる」-。エンペラーで約二十年間、ナンバーワン・ホステスだった徳川美智子さんは、八柳さんが口癖のように言っていた言葉を思い出す。「私にとっては仕事の師匠。ありがとうの一言です」と涙をぬぐった。
二十五年来の付き合いという、「あるた出版」の平野たまみ社長は「八柳さんを『夜の牧師様』と呼んだ人もいた。それほど心の温かい人だった」と振り返った。
八柳さんが熱心に取り組んできた一つに文筆活動がある。「すすきの有影灯」「薄野まで」「すすきのの女たち」…。歓楽街に長くかかわってきたからこそ知っている人間模様を、八柳さんは文字に起こした。
テレビでも共演したことがある作家の東直己さんは「繊細で、いい文章を書く人だった。苦労をしているからこそ、書けたのだろう」と語った。
二十一日の通夜に飾られた八柳さんの遺影は満面の笑みだった。「通夜の帰りに、八柳さんをしのんで、ススキノで一杯やってほしい」。葬儀委員長を務める「あるた出版」の山崎巌会長はそう呼びかけた
ススキノの女性や自身の過去などエッセーとも小説ともつかぬ独自のタッチで書かれていた。非常にリアル且つあたたかく、どれほどの人間をこれまで見てきたのか相当な苦労をされたことが伺えた。
暫らくし、八柳さんに会ってみたくてふらりと「エンペラー」を訪ねてみた。キャバレーは初めてで緊張したが、フロアの隅に立たれている八柳さんを発見した。早速、ご挨拶をすると、「私の本を読んで訪ねて来てくれた方は初めてです」と大変恐縮されていた。連絡先をいただけますかということで名刺交換をしてその日は帰った。
お礼の手紙を送り、暫らくして「エンペラー」を訪ねてみた。八柳さんは「先日のOさんの手紙、店の朝礼で全部読ませていただきました。うちのホステスにも是非伝えたかったことがあります。」と言われた。こちらは赤面ものであったが、内容はキャバレーの文化を守ってほしいことや店の心遣いなどについて書いた覚えがある。
その後、2,3度お会いして、歌志内出身のアローナイツショーの時は、炭鉱出身の彼らに興味があることを告げると楽屋まで案内していただきアローナイツのボーカルの方を紹介したいただいた。八柳さんからは「一度、ゆっくりススキノで杯を交わしましょう」と言われていたが、その後、店には出られなくなり、結局果たすことはできなかった。最後にお会いしたのは2000年頃であろうか。
一昨年、秋エンペラー閉店の話を聞き、会社に八柳さんの近況についてお伺いすると既に体調を崩されて出てこれないというだった。
フロアの、やさしそうな笑顔が忘れられない。
4月1日道東の暴風雪と「快速ノサップ」の思い出
2008年04月01日掲 載
新年度がスタートした。関東では桜が満開となり、新入社員たちが颯爽と歩いているが、毎年この日はうつ気分になる。若い時のある”思い出”があるからだが、木の芽時から花が咲く、5月にかけては管理人のエネルギーがもっとも枯渇する時期である。
さて、1日は寒気を伴った低気圧が三陸沖で猛烈に発達、道東を中心に大変な暴風雪になったようだ。標茶では車70台が立ち往生、根室半島では各所で国道が寸断され、停電となり終日マヒ状態だったらしい。
管理人は1995年3月に根室で同じ経験をしたことがある。釧路からレンタカーで根室へ向かっていたが、途中から風・雪が強くなり、国道44号線は浜中手前から全く視界が利かず、吹き溜りが国道を塞ぎ走れる状況ではなくなる。やっとの思いで厚床まで来たが、そこから先は通行止めで何十台の車が埋まっているらしいという情報。
警察か開発局の指示で厚床駅に車を置いた。他のドライバーも同様だ。暴風雪の中、駅舎へ入ると普段は閑散としているところがごったがえしている。何と花咲線が遅れているが厚床へ向かっているという。時間通りでは行ったはずの根室行きの「快速ノサップ」がやってきた。これは奇跡かと思った。視界は利かず、風速は30メートルぐらいはありそうだが辿りついたのだ。
厚床を出た列車を暴風雪で車両を左右に揺らしながら懸命に走り、根室に到着した。鉄道を止める規制基準に達していたはずだが、走破したのは不思議だった。何も視界が利かない中、保線区員が乗車していたがこちらも不安であった。運転手さんはさぞや大変だったであろう。
根室駅を下車すると更に風が強くなり、歩けない状態で駅舎の壁につかまりながら迎えの車を待った。翌日、厚床まで送ってもらいレンタカーをピックアップしたが、車はブリザード状態且つ埋まっており、絶句した思い出がある。
独特な気象条件がある根室半島。自然の恐ろしさを身にしみた。2年前も暴風雪警報の中、北太平洋シーサイドラインを走り、道路には高さ50センチぐらいはある吹き溜りが障害物のように続々登場。引き帰すこともできず時速20キロ程度で2時間以上かけて抜けたが、この時の神経の使い方と立ち往生の恐怖(44号線ではないので殆んど通行量がない)も忘れわれない。
それにしても何百台という車が立ち往生して一夜を明かしたその日、釧路から根室まで懸命に駆け抜けた「ノサップ」はすごいと思った。JR北海道のキャッチコピーで「冬こそJR」というのがあるが、それはその通り、運賃も多少高くなるのも理解できる。
激動の1968年、「交通公社時刻表」で北海道を旅する
2008年02月16日掲 載
超多層列車急行「なよろ」・「かむい」・「るもい」・「ましけ」・「そらち」の時刻表 画面をクリックすれば拡大します
旭川発旭川行き急行「旭川」!!
先日のブログで「JTB北海道時刻表」が3月で休刊になることを書いた。予想外に多くの反響があったが、手持ちの道内時刻表ではもっとも古い1968年7月号の「交通公社北海道時刻表」を久しぶりにめくってみた。1968年といえば国鉄に限らず、路線バスを含め公共交通がもっとも華やかであった頃だ。
当時、管理人は6才であったが、68年の夏休みは蔵王と諏訪・蓼科へ行った。山形までは特急「つばさ」に乗車、勿論、新幹線ではなく気動車で5時間近くかかったが、憧れの長距離特急に乗れて嬉しかった。山形市内と蔵王温泉に泊り、当時定番コースであった蔵王エコーラインの定期観光バスに乗り宮城へ。仙台からは指定券が取れず、冷房のない旧型客車の臨時急行で帰ってきた記憶がある。
諏訪は祖父母の出身地なので毎年行っていたが、出発の朝、立川米軍基地から輸送される燃料貨物車が学生(過激派)の襲撃に遭い、線路は火の海。中央線は半日以上止まり、臨時の気動車急行で行った覚えがある。当時の新宿にはフーテンやヒッピーがいたことも微かに記憶している。同じ68年に「新宿騒乱」があった日は、小学校が新宿に近かったため、午前で学校が休校になり、親が迎えに来たことがあった。毎日がエキサイティングな1968年である。
さて、「交通公社北海道時刻表」を読むと面白い列車に出くわす。なかでも5つの急行を各地で連結、切り離す超・多層列車を発見した。その列車は、名寄・旭川・増毛・富良野発留萌・札幌・小樽行き急行列車(812D)で「なよろ」、「かむい」、「るもい」、「ましけ」、「そらち」として走っている。
まず、名寄5:48に出発する札幌行き急行「なよろ3号」は、旭川で7:30発小樽行きの「かむい1号」と留萌行きの「るもい1号」を併結する。途中、深川で「るもい1号」を切り離す。さらに深川では増毛から来た「ましけ」を連結する。同一列車で上り下りの留萌線列車の切り離し&連結の離れ業だ。さらに滝川では富良野7:17発の「そらち1号」を併結して札幌には9:49着。ここで「なよろ」と「ましけ」はお役御免となり、「かむい」&「そらち」が小樽へ向かい10:28分着。「なよろ3号」は夏季だけの運転のようである。
まるでパズルを解くような難解複雑なダイヤである。1等車も旭川-札幌間の「かむい」に連結しているが、翌69年からは何故か手稲まで1等車(この年からグリーン車に)を連結している。意味不明。
北海道にはこういった多層列車が国鉄末期まであったが、5列車というのは記憶にない。
もうひとつ面白い列車として、旭川発旭川行き急行「旭川」というものがある。旭川から石北本線で遠軽、名寄本線に入り、名寄から宗谷本線に入り、旭川に戻るもので上下1本ずつ運転されていた。このような循環型列車は、当時全国各地にあり、北海道では札幌発で倶知安から胆振線に入り、室蘭・千歳線経由で札幌へ戻る「いぶり」もそうであった。
また、急行「大平原」も面白い。士幌線の糠平と広尾線の広尾を結ぶもので途中、帯広を経由する。十勝バスではない。ネーミングもそのものズバリだし、きっとカニ族が沢山乗っていたのであろう。「大平原」は、広尾から国鉄バスで様似へ、さらに日高線の急行「えりも」で札幌へ行く周遊指定券も発売されている。
1968年7月の北海道旅行、羨ましい気がする。
小檜山博氏、JR北海道車内誌での記事盗用と情報社会の怖さ
2008年01月19日掲 載
回収されることになったJR北海道車内誌1月号 「お宝」になるか
毎月楽しみにしているものにJR北海道の車内誌「THE JR Hokkaido」がある。特急電車の車内やツインクルプラザなどで無料で配布しているが、東京ではファン向けに神保町の「書泉グランデ」などでバックナンバーを販売している。
創刊以来、紙面サイズや編集内容もあまり変わらず、イラストレーターの渡辺俊博さんの紀行イラストは創刊の頃から続いている。また、もうひとつ長く連載されているものとして小説家小檜山博氏の読みきり小説があった。
いつも泣かせる人情話を書いてくれるが、盗作していたことが発覚してしまった。19日付けの読売新聞によると1月号の「THE JR Hokkaido」掲載の「新・人生劇場 電車」が、毎日新聞で掲載された読者投稿を盗用したものであり、小檜山氏も事実関係を認めているという。ちょっとショックな話である。
JR北海道は同誌の回収を始め、小檜山氏は読者投稿した主婦に謝罪文を送り、掲載打ち切りを申し出たという。
管理人は小檜山さんの小説を何冊が読んでいる。現在は削除してしまったが、本ブログの「おすすめ書籍」で紹介したこともある。
盗用は当然よくないことだが、毎月ネタを探すのは大変であろう。テーマが”ちょっといい話”的なものが多いので新聞の投稿欄に目が行くのも分からないわけではない。北海道では部数の少ない毎日新聞なので「大丈夫かな。まあ使わせてもらおう」という意識もあったのではないか。
最近、新聞社の社説やコラムが盗用していた事件が何度か起きたが、ネット社会の今、情報収集をしているうちにどれがオリジナルかわからなくなってしまうことも多いであろう。
このブログにしても、管理人が自分の言葉・考えで書いているつもりだが、新聞社HPやニュースブログなどから情報収集する際、一部記事をペーストして内容を把握、自分流の解釈をして再構築をかけるので、パクリにならないようにかなり気を使って書いている。
webによって情報収集が容易になった分、慎重さとルール厳守が求められるといえる。
昭和パワー炸裂 花巻「マルカンデパート」大食堂
2007年11月27日掲 載
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マルカンデパートと昭和の雰囲気充満の大食堂、売り切れが続出の盛況ぶり
映画「3丁目の夕陽」がヒットしているが、昭和30年代から40年代のデパート食堂黄金時代を彷彿させるものに出くわした。
ちょうど花巻へ行った折、何度かコメントを頂いているmaksim727さんご推薦の「マルカンデパート」を訪れてみた。何が目的かというと最上階に「大衆食堂」である。昭和レトロのいいかんじを出しているというので、東和町からの帰り、路線バスがマルカン前にちょうど停まったので、急きょ途中下車をして訪れてみた。
外見は地方都市の地場デパートである。イメージでいえば函館の棒二森屋か上諏訪の温泉があるデパート丸光、潰れた釧路の丸三鶴屋(丸井今井)といったややうらびれ系である。
中に入ると雑然としており、100円ショップなどガラクタも多い。何よりも休日なのに客が少ない。管理人は朽ち果てた食堂を想像してエスカレーターを登ったが、着いてビックリ!!
昭和のお好み食堂(大食堂)を思い出させる大きなフロアが満席。さらに食券を買うのに行列が出来ている。ショーウインドーを見ると「売り切れ」と書かれた商品が続出している。
ここは花巻市民のオアシスか?いったいどこからこれだけの人が集まってきたのであろうか。外の商店街の人は疎らだが、大いなる熱気が大食堂にはあった。
そのパワーと混雑に圧倒され、何も食べずに引き上げたが、地域に愛されていることがよくわかった。意外にこういった施設が地域や商店街再生のカギになるのではないかと思った。
都内ではデパートの大食堂は殆んど消えたはずだ。高島屋の「特別食堂」でさえも無くなった。老若男女、家族同士が楽しく食事をしている光景を見て安心した。、日本も捨てたもんじゃないなと思った。
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花巻駅前を行く昭和50年代中頃製造の岩手県交通路線バス こちらも昭和パワーだ
ススキノと中洲・盛り場を比較してみると
2007年11月22日掲 載
これまでススキノは星の数ほど(言い過ぎ?)足を運んでいるが、西日本最大の盛り場・中洲には縁がなかった。もともと九州に行った回数が少なく、福岡は今回で2回目である。かなり旅はしている管理人であるが、全国で抜けている個所はけっこうあるのだ。
博多には2泊したが、滞在したホテルは西鉄イン福岡。福岡市内に「西鉄」と付くホテルが5つあり、さすが地元というかんじだ。8月にオープンしたばかりのホテルだが、実は2年前まで博多東急ホテルとして営業していた建物だ。那珂川沿いにありちょうど天神と中洲の中間。客室からは対岸に中洲のネオンが見え、立地はサイコウであった。もとはシティホテルなので客室も広く(ツインシングルユース)、古いながらもよくリニューアルされていた。
夕食時、天神から中洲を歩いてみた。天神は西鉄の始発駅、天神福岡駅があるが、九州最大のターミナル、そして最大の商業エリアである。あらゆる機能がここに集約されており、札幌でいえばJR札幌駅から大通、ススキノにかけてのマチ機能を兼ねているかんじであるが、スケールは博多の方が遥かに上である。この他JR博多駅もあり、ターミナルは2ヶ所あることになる。福岡空港も地下鉄で博多駅まで5分、天神まで11分とえらく近く、千歳と比較すると札幌はお話にならない。
さて本題の盛り場、中洲へ天神から歩いてみた。まさに那珂川と博多川に挟まれた”中州”に立地するのだが、ススキノと較べると意外に地味な印象であった。まず、規模がそれほど大きくなく、飲食店の数は2千軒強ぐらいということで、ススキノの較べると半分近い。
ススキノと違うところは、食事処よりもバーやクラブなどが目立つことだ。勿論、多くの居酒屋もあるが、普通の飲食店は天神界隈に多く、若者はそこに集中していた。
ススキノでは1軒目の食事から2軒目のスナックやカラオケまで同じススキノで完了するが、博多の場合、ちょっと違うようだ。それにしても博多は食べ物が安い。今は”ふく”の季節だが、3千円位からコースがある。管理人が入った割と有名な店では、とらふくコースが5千800円であった。また、どの居酒屋でも生の鯖(ごま鯖など)があり、初めて一尾姿で出てきたものをみた(何と580円)。この他にも水炊きやモツ煮込みやモツ鉄板焼、うどんも300円でお釣りがくる安さで食べられ、それも美味しく感激してしまった。
札幌の食は安い部類だが、博多には敵わないと思った。よく、単身赴任経験者にアンケートを取ると札幌と福岡が1,2位を占めるがよくわかる気がする。どちらも共通するのは食べ物が美味しいこと、そして地元の人のよさである。
ススキノと中洲、比較すると面白いが、中洲は大人のホステスさんを多く見かけた。和服を着ている人も多い。ススキノは、ニュークラブ(?)の子供ばかり目立ち、大人の女性を見かけなくなった。和服のママさんなど絶滅品種である。管理人は最近、ススキノが面白くなく、足が遠のいているが、こんなところにも理由があるかもしれない。
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ホステスさん御用達のブティック(?)
サイト開設まもなく3年、方向性で悩んでいる昨今です
2007年10月01日掲 載
今日から10月、会社でいえば今年の第四四半期を迎えた訳であっという間だ。このところ北杜の窓ブログ更新が滞っている。観光ミシュランなどの他ページや折角開設した別ブログ「旅をマーケティングするブログ」も更新しておらず、ちょっとヤル気をなくしている。
その理由としては、サイト開設からまもなく3年、月間1万5千以上のアクセスを戴いているが、内容のマンネリが一番目の理由。北海道関連を中心にした観光や交通ニュースを紹介し、管理人流の解説、コメントを書いているが、切り口がワンパターン化しており、以前ほど各テーマに対し、熱心に、愛情を持って書けなくなってしまった。
二番目としては、発信が首都圏であり、ライブ感のある情報を伝えることができないという理由。情報収集はメディア以外からも含め、アンテナを広げているが、どうしても無理が出てしまう。現地に居ないとわからないことがある。
三番目としては、こちらが伝えたい情報とRSSなどに登録している読者の”嗜好”にどうもズレがあるということ。硬い観光産業を語る記事よりは、乗り物ネタなどの方が興味があるようだ。特にバスやフェリーなどの乗り物オタク系記事の時は反応が強い。勿論、そういう話は大好きだし、今後も紹介してゆきたいが、それがメインのサイトではない。夕張や釧路など地方衰退記事などに反応が多いのは嬉しいことだが。
また、北海道以外の観光動向を伝えたい時もあるし、全く観光と関係ない趣味の話や日常を語りたい時もある。できる限り、私的なことは避けてきたつもりだが、そのバランスが難しい。そのために別ブログを作ったが、更新できない状態。メルマガも半年以上発行できていない。
仕事とこのサイトがつながればいいのだが、最近は北海道関連の仕事(観光や交通・ナビ関連を中心にしたwebの企画制作やマーケティングなど)が少ないことも最近のパワーダウンに影響している。このままでは北海道に対する愛情や情熱も薄らいでいきそう。
サイト開設3年を迎え、どういう方向性でこれから進めて行けばいいのか迷っているのが正直なところです。当面(今年いっぱい?)はこれまでと同じスタイルで行く予定ですが、動きながら改善や大幅リニューアルを含めて考えて行くつもりです。
リピーターの皆さまのご意見や提案なども是非参考にしたいと思います。よろしくお願い致します。
石屋製菓不祥事にみた北海道が引きずる体質について
2007年08月19日掲 載
石屋製菓の不祥事は石水勲社長の辞任に発展をした。次から次へ不祥事や嘘が表面化し、先日のミートホープの事件を思い起こさせる。これで会社が消えることはないであろうが、企業ブランドは失墜である。土産菓子はイメージが先行するので、消費者へ与えたマイナスイメージは大きく、今後、舵取りを誤れば消滅の可能性もある。
今回の事件で、北海道経済の脆さをあらためてかんじた。北海道で優良企業といわれているところには同族経営が多い。売り上げはそこそこあっても「商店」の域を脱しておらず、一度劣勢にまわると弱い。コンプライアンスへの意識も当然薄い。
北海道経済は市場が小さく、競合も育ちにくい土壌があり、お山の大将で安住してしまう。また、もたれ合い体質もある。雇用主の雇用や従業員へ対する意識も低い。北海道経済が長期低迷から脱出できないのは、そんな体質と環境が関係しているのではないか。官主導(依存)の悪癖もいまだに残っている。
また、今回の石屋製菓の事件では、マスコミも青くなったのではないか。石屋製菓はメディアの力を借りて大きくなった会社である。「白い恋人」は、利益率が高く、潤沢な資金があり、広告宣伝費に多くの予算を投じている。
これだけ広告にお金を出してくれる道内企業は少ない。本来、報道と広告は別だが、イエローメディアだけではなく、大メディアでも提灯記事のようなものばかりになり、批判的なものは書きずらくなるのではないだろうか。
北海道には道新という絶対的なオピニオンリーダーがいる。一メディアが絶対的な権力を持っているので同じ色に染まりやすいという問題がある。そこに居るとなかなか気づかないことだ。多角的な見方が出来ず、チェック機能もはたらかないという問題が生じる。
10年近く前の雪印、先日のミートホープ、今回の石屋製菓と不祥事の背景は違うが、ファクターは共通している。事件の本質には、北海道(経済やメディアも含めて)固有の問題が背景にありそうだ。北海道が引きずる負の特殊性を一度、洗い出してみるといいであろう。
石屋製菓の不祥事について(2)
2007年08月16日掲 載
石屋製菓の不祥事は、道内メディアだけではなく、全国レベルでもかなり大きく取り上げられている。昨日のブログで、「同族経営」の問題点と、「風通しの悪さ」について書いたが、新聞各紙も概ね同様な内容である。
管理人が1995年に石屋製菓を2度訪問している。ちょうど「チョコレートファクトリー」(白い恋人パーク)が完成し、コンサドーレ(当時:JFL東芝)を札幌へ誘致しようと動いていた頃である。
当時、管理人は、首都圏から北海道への「移住」を考えており、ある方の紹介で、石屋製菓の石水社長にお会いした。菓子の方ではなく、これからサッカーやテーマパークをはじめとする新規事業を進めるのでそちらのサポートをして貰いたいといった内容であった。
完成したばかりの工場も案内されたが、その時の印象は今回の事件を予見させるようなものがあった。
同族でトップダウンのオーナー企業体質、一般社員と経営陣(ファミリー)には大きな壁があるようにかんじ、これまで関わってきた会社とは大きな違和感を覚えた。中も静かで、覇気をかんじない。
将来の展望、拡大路線の話を社長はされたが、どこか不安をかんじさせた。管理人ははじめて同族経営とはこういうものであるとナマで知った。
その後、石屋製菓は順調に業績を伸ばし、石水社長も北海道財界の若手からトップクラスへ昇進された。縁のあった会社なので成長を喜んでいたが、反面、やり過ぎではないか、本業が疎かになっているのではないかという不安があった。そして何よりも社長と対等で社内で話しができる人材が相変わらずいないのではないか気がかりであった。
企業の不祥事はある日突然、出てくるが、実は積み重ねの結果である。メディアから集中砲火を暫く浴びるであろうが、ここでいかに機転が利く対応が取れ、消費者にいいイメージを与えるかが、信頼回復のカギである、事業再開後へ大きく影響する。
「すばやく」、「嘘はつかない」、「発表ができることはすべて出す」、「頻繁な会見やリリース」、「消費者の立場になったメッセージ」、「誠意ある対応」・・・これらがキチンとできていれば大ヤケドにはならない。しかし、満足にそれができる会社が少ないのだ。
縁のあった企業なので気になりながら、成り行きを見守っている。
暑気払い
2007年08月15日掲 載
暑い日が続きますね。日本列島熱帯化ですが、昨日の夕方、チャリンコで海に行ってきました。海の家で生ビールを一杯!!暑気払い画像です。
石屋製菓の改ざん事件と企業体質
石屋製菓が、「白い恋人」の「30周年キャンペーン限定品」の返品商品を再包装して賞味期限を改ざんし、通常の「白い恋人」として再出荷していたと発表したが問題になっている。また、アイスクリームからは大腸菌、バウムクーヘンの一部から黄色ブドウ球菌が検出された。
「白い恋人」シリーズは、北海道NO.1の売り上げを誇る菓子であり、石屋製菓の本社は、「チョコレートファクトリー」として観光バスも立ち寄る観光名所になっている。同施設内には、コンサドーレ札幌の練習場(白い恋人サッカー場)があり、チームのメインスポンサーとして球団運営も含め、支援してきた。また、最近では小樽運河のそばに、昭和レトロ風屋台村「小樽出抜き小路」を経営するなど本業の菓子以外でも積極的な展開をしている。
社長の石水勲氏は、これまで数々のプロジェクトを手がけてきており、北海道財界のなかでも力を急速に伸ばしている。石屋は先代が澱粉工場から出発し、石水氏は2代目にあたる。会社は云わば同族経営である。先日の「ミートホープ」でもそうだが、今回も内部告発から発覚したようだ。
その時のブログでも書いたが、同族・オーナーワンマン企業は、権力が一ヶ所に集中し、トップダウンになる。同族経営のすべてが悪い訳ではないが、会社がある一定規模に達すると、風通しが悪くなり、個人の裁量に限界がくる。そして組織も硬直化する。不二家然り、西武の堤兄弟なでもその例に当てはまる。
特に石屋製菓・石水社長の場合、本業以外で大変多忙である。もっとも基本である「菓子」が疎かになっていたのではないか。拡大戦略のツケがまわってきたともいえよう。
管理人は、石屋製菓がチョコレートファクトリーをオープンした際、ある縁があり、石水社長に館内を案内していただいたことがある。白い恋人の製造過程は、大変近代的で、細菌が検出されるようにはとても見えなかった。確か社長も「大量生産と衛星管理」について説明してくれた記憶がある。
石水社長は、首都圏のコンサドーレの試合へ行くと必ず姿があった。チームに並々ならぬ強い愛情を持たれているが、ここは菓子屋としての原点に返るべきである。ライバルである六花亭とは、対極的な存在であるが、ここは本業で勝負している。いい菓子があってこその新規事業。餅屋は餅屋であることを忘れないでほしい。
「大型連休」よりも休暇を取り易い環境づくりを
2007年05月02日掲 載
明日から大型連休後半が始まる。管理人は、混んで、高いGW期間中に旅行へ出る習慣はない。連休中の道内は本州に較べて、比較的空いており、特に道東方面は狙い目だが、そこまで行く交通費が高い。
最近、個人旅行の宿泊が、週末や3連休、そして大型連休に集中する傾向があると複数の宿経営者から聞いたことがある。以前であればパラパラといた平日泊り客が減ってがら空きに、ところが週末や連休になると客が一極集中し、断らなければならない状態という。宿経営者は事態を不思議がっていた。
どうして休日に宿泊が集中するようになったのか考えてみたが、平日に休暇を取りにくくなったことに原因のひとつがあるのではないか。
以前と比べ職場の個人への業務負担は増しており、雰囲気的にも有給休暇を取りにくい環境があるのだと思う。
政府が「ゆとり休暇」を推奨し、有給休暇の消化と長期休暇の取得を訴えても、職場環境は逆行している。3連休や旗日を増やすのもいいが、むしろ平日に休暇が取れ、休暇を分散できる仕組みをつくる方が正しい「ゆとり休暇」ではないか。
日本は欧州と違い、ロングバケーションは難しい。ならば繁忙期以外に1週間程度の休暇を年2回程度取れるようにすれば「ゆとり」の休暇が過せるはずだ。
休日の分散は、高く、混んで、希望の場所や宿が取れない不満を解消するだけではなく、観光産業にとっても入りが分散・平均化することで健全な発展につながり、一石二鳥のはずだが。
知床「北こぶし」で世界自然遺産プロレス大会が開催
2007年03月26日掲 載
道内でマチおこしや福祉施設慰問など地道な活動を続ける道内限定プロレス団体・北都プロレスが3/31と4/1の両日、ウトロの「知床グランドホテル北こぶし」2階「北海」で知床世界自然遺産登録を記念(?)したプロレス大会を開催することになった。
当日は宿泊者は無料で観戦できるが、ホテルのブログを読んでいると「お子様、飛び入りOK!※流血などの過激な演出はありませんので安心してご覧いただけます。」と書いてあり、笑ってしまった。「過激な演出・・・・」と堂々と書くあたりプロレスもオープンになったものである。
また、北都プロレスでは4/4(水)午後6時から「チャリティプロレスinゆうばり」を夕張市の清水沢健康会館で開催する。入場は夕張市民のみで無料である。問合わせは北都プロレス℡011-791-2576 携帯090-8636-6198(中條) 。
この北都プロレスのマチおこしプロレス、地味だがコツコツやっており、好感が持てる。
津波避難と首都圏震災による北海道パニック
2006年11月16日掲 載
昨日の地震と津波で興味深い記事が出ていた。
読売新聞によると竜巻被害を受けた佐呂間町では、対象732人のうち677人(92・4%)が避難した。一方、根室市では対象3万1426人に対し、避難所への避難者は131人(0・41%)にとどまった。この違い、まだ竜巻が生々しく残っている佐呂間町民は敏感になって当然であるが、根室の低さは「地震慣れ」からきているのではないか?
根室は地震多発地帯なので津波に対する知識も豊富で、地震には冷静である。また、高台が多く、被害に合いにくいという地理的条件もある。
テレビの警報を見て”あの程度”なら来ないという確信があったのであろう。何しろ1994年の東方沖地震ではすぐ近くの色丹島が震源で、規模も確かM8.4ぐらいで今回より大きかった記憶がある。それでも到達した津波は2m程度ではなかったか?
それに対して佐呂間町のあるオホーツクは日本でもっとも地震が少なく、安全といわれているエリア。ところが竜巻と地震がいっぺんにやってきたからそれは大変である。
過信はよくないが、根室のような地震慣れも必要かもしれない。94年の地震は震度7クラスの揺れであったので首都圏で起きれば壊滅していたであろう。災害が最小限で食い止められたのは硬い地盤と頑丈な北方住宅のおかげである。
93年の釧路沖地震以来、何度も大地震に襲われた釧路の住民もそうであるが、地震慣れしている地域は、防災への意識が非常に高く、見習うことも多い。
もし、首都圏で大地震が発生した場合、多くの難民が北海道へ押し寄せるであろう。一時的に北海道はパニックになる(国内どこでもそうだが)。そのまま定着する住民など移住者が激増して受け入れきれなくなる可能性がある。さらに札幌の不動産が高騰し、地震景気ということも考えられる。
そして、現在、推進されているシニア移住などはどこかへ吹き飛んでしまうであろう。
爆弾低気圧と竜巻、そして地震
2006年11月15日掲 載
千島択捉沖でM8.1の大地震が起きた。津波警報などが出ているが、大事には至らないようである。実は佐呂間の竜巻を含め、このところ寒冷前線を伴った低気圧が道内の陸地に近いところで急激に発達をするので、これまで見たことがない気象パターンであり、少し気になっていた。
管理人は気象や地震(予知)に興味があるが、通常、この時期、道東方面でこのような低気圧が陸地付近で発達することはない。せいぜい冬型が強まり、千島付近で発達する程度で、等圧線が立て込み、猛烈に海上で発達するのは2月ごろからである。
しかし、この数年、気象が明らかに変だ。道東(太平洋側)はこの時期もっとも穏やかで晴天率が高いはずであるが最近はそうでなくなり、いきなりドカ雪が降ったりする。一昨年の北見などはシーズンを通して雪国のような状態であった。これが温暖化と関係あるかは何ともいえないがやはりあるであろう。
ところで千島や三陸沖で低気圧が猛烈に発達するとその後に地震がおきやすいことはご存知であろうか。この話は根室の漁業関係者から聞いた話だが、1994年の北海道東方沖地震などあの付近で発生する地震の多くが、何らかの因果関係があるようである。
想像だが、気圧の変化、磁気、海面下の変化、月齢などいろいろな要素が重なるからであろうが、偶然とは思えないことが多い。このところ震源付近でも低気圧が何度も台風なみに発達をしていた。
記憶では千葉の茂原で竜巻が発生したすぐ後に震度5の地震が千葉東方沖に起きたことがある。
非科学的といわれるかもしれないが、気象現象が地震誘導に何らかに関わり、またはサインを示していると信じている。
参考までにロシアの地震予知サイトがあるがなかなかの的中率。今回、規模は予想より大きかったが的中させている。
北海道ジャーナリズムと道民気質
2006年09月27日掲 載
先日、新庄引退と道民気質についてブログに書いたが、道民はそんなにアホではない、批判精神は持ち合わせており、外様には言われたくない趣旨のメールを戴いた。
あの記事は、道民に対してというより、批判することを避け、狭い世界で循環する道内メディアを意識して書いたものである。
北海道には大小様ざまなメディアがある。その中で目立つのが道内経済(ゴシップ?)誌である。代表的なところでは「ZS」、「Q」、最近では「WS」、地方都市でも「HK」や「AZ」(?)などが思い浮かぶ。
それらをイエロージャーナリズムと呼ぶ人たちもいる。
私も以前、これらのメディアに嫌悪感をかんじたことがあった。人の足を引っ張りながらも持ちつもたれずの関係を作る。雑誌同士でプロレス的ライバル関係をつくり、部数と広告収入を相互で上げてゆく。だから北海道はダメなんだということになってしまう。ある種の共存共栄であるが・・・
確かに発展性はないが、ゴシップが面白いのは常であるし、需要があるのだからそれはそれでいいのではないかと最近思うようになった。メディアの本質はどこでもそれほど変らないはずだ。
たとえば業界誌を不要と言う人もいるが、業界誌の中には良質なものもあり、業界を浄化する意味合いもある。
勿論、タカリ的なことは許されないが、総てが不要とは言い切れないであろう。私も道内経済誌で北海道の動きがわかり、読み物としても楽しめるのでたまに購入もする。
最初の話に戻って新庄の話は100%甘やかす批判精神を持たないメディアは北海道にとってよくないということ。贔屓の引き倒しと書いたコンサドーレでは去年まで在籍した選手が、昨日オレオレ詐欺で捕まった。
これまで北海道は外から来るものには批判精神を持ち合わせないのに、中からのものは足を引っ張るような体質があった。
談合体質を捨て、流されずにYESはイエス、NOはノーといえる社会がつくれれば人もメディアも変ってゆくと思うが。
これは北海道に限ったことではなく、日本すべてに言えることであるが。
ススキノ「エンペラー」が閉店
2006年09月10日掲 載
これまで「エンペラーの思い出」としてお伝えしたススキノにある国内最後のマンモスキャバレー「エンペラー」が9日の営業で閉店をした。
私は7日に訪ねてみたが8時以降は満席とのことで入場できなかった。9日のラストステージは夕張出身の大橋純子が出演。35年の歴史に幕を閉じた。
現在、国内に「エンペラー」のような芸能人が出演するキャバレーは殆どなくなっている。新宿・歌舞伎町にある「クラブハイツ」(ススキノにも同名があるが同じテアトル系の経営である)ぐらいしか記憶にない。昔はどのマチにもあった形態であるが、いつのまにかキャバレーは「文化財」になってしまった。
50年以上続いたショーが楽しめるようなキャバレー文化が消えるのは時間の問題であろう。
ワンランク上の形態としてナイトクラブがあったが、赤坂の「ミカド」、「ニューラテンクオーター」、「コパカバーナ」などすべて20年以上前に消滅している。
そういった意味でも昔の日活映画のワンシーンと見間違えるような雰囲気があった「エンペラー」の閉店は誠に残念である。
前回、「エンペラーの思い出」の中で名物ホステスとして紹介をしたTさん(徳川さん)は既に退店し、スナックを経営していると道新の記事にあった。
また、店の顔であった八柳相談役は病気療養中とのことでどんな思いでこの閉店を受けとめたであろうか。
函館駅の「女性専用パスタ店」が女の時間を大幅縮小
2006年08月17日掲 載
4月のブログで紹介をした函館駅2階にある”女性専用パスタ店”「ブォン・ヴィアッジョ」が大幅に女性用タイムを縮小をした(午後2時から4時のみ)。ちょうど4月中旬、オープンしたての頃に行ってみたが、男性が入れるのは女性同伴で4時以降のみということで入口だけ見て帰ってきた。
その後、この店は物議をかもした。「男性差別ではないか?」、「専用の意味不明」など道外でもネットでかなり話題となり、私もブログで「意図不明」と書いている。
最近、女性がこれまで行きにくい、使いにくい、利用しにくいといった場所にプライオリティが設けられるようになった。通勤電車の女性専用車、夜行高速バスや夜行列車の専用車両などパブリックなものからホテルでも女性専用フロアなどがある。
温泉でもこれまでは女風呂が男風呂より小さいところが多かったが、男性と同じサイズかさらに広くするなど女性客の目を意識している。
なかには女性専用の岩盤浴やホテルのレディスパックなど男性からみると羨ましいようなオトクなものも多い。
消費購買力が高い女性を狙ったサービスの開発や、これまで男性天国であった立ち飲み屋や定食屋に女性を意識したインテリアやメニュー構成などであきらかにターゲットを女性に絞り込んだものを増えている。
しかし、こういった飲食店で「男禁」を銘打っているわけではなく、女性を活用することで男性客を誘客している。函館のパスタ店の場合はそうではなく、完全な”切り離し”である。それも公共性が高い駅ナカの飲食店でやる意図が理解できない。
果たしてこのサービスが女性に受け入れられていたであろうか。「男性差別」以前の問題として意図不明で非合理性な「女性専用パスタ店」はビジネスとしても発展性に疑問があるし、女性専用車や「消費女性主導の時代」を誤って解釈したJRサイドの勇み足であろう。
「エンペラー」の思い出(2)
2006年08月14日掲 載
8/11のブログで紹介をした9/9で閉店をするすすきののマンモスキャバレー「エンペラー」についての続編だ。
八柳鉄郎氏の著作にもだびたび登場するが、「エンペラー」には名物ホステスが何人かいる。その一人、Tさんは外見が市原悦子似の普通のオバサン、しかし10年以上売上げNO.1の超売れっ子である。
何しろ数万人単位の顧客データベースを持ち、自宅には数台のPCとプリンターがあり、せっせとDMを送っているらしい。私は直接話をしたことはないが、和服やチャイナ服姿でいつも忙しそうにフロアを飛び回っていた。
Tさん、ひっきりなしで指名がかかるからであるが、このオバサンの何が惹きつけるのか一度、じっくりみてみたかった。Tさん、閉店後はどうするのであろうか。
私が「エンペラー」に行くのは有名歌手(最近はB級であるが)などが出演したりする日のせいぜい年に1,2回。黒服に「ご指名は?」と聞かれても、馴染みはおらず、知っている女性の多くがバイトなので次に行くときは辞めていることが多く、親しいホステスさんはいなかった。
そのなかで唯一、印象的な女性がいるので紹介したい。
1998年頃の話だが、私はフリーで行くので指名があまりかからないバイトの女性がとっかえひっかえ席へ挨拶に来る。これは落ち着かず、気疲れするのだが、源氏名Mという函館出身のホテル専門学校2年生の子がついた。同じ専門学校の同級生3人でバイトをしていたが、少しの会話でこれまで付いた子にはなかった聡明さと勘のよさのようなものをかんじた。また、もって生まれた水商売のセンスのをかんじた、この子はひょっとして化けるかなと思い、この後、どうなってゆくか興味をもつようになった。
当時Mは「エンペラー」を遊び代欲しさのアルバイトと割り切っており、水商売には興味がないようだった。しかし、当初はかからなかった指名が、行く度ごとに増え、指名により席を離れることが多くなった。売れっ子の証拠であり、数ヶ月でアルバイト組では人気者になっていた。
それでも欲がなく、行く度、「次はもういない。辞めてるよ」と言っていたが、就職難でホテルの仕事が見つからず、学校の出席単位も足りなりようだった。
そのうちアルバイトではNO.2か3になり、ホステス全体でもベスト10に入りそうだと嬉しそうに話をするようになった。その頃からやる気が出始め、レギュラーでやってみたいと言うようになった。プロ意識を持つようになり、原色の安っぽい貸しチャイナドレスをやめ、自前の服で出勤をするようになった。
会って間もない頃はMに幼さをかんじた。微笑ましい部分とここは直した方がいいという部分があり、話し方や食事の仕方などそれとなく注意したことがある(うるさいオヤジと嫌われるのではと内心ビクビクしたが)。
しかし、次に会うとそれが少しずつ直っているのに関心した。僅か数ヶ月の間に身だしなみ、話し方などが大人のそれになってきた。女性は周囲から注目を集めていると変わってゆくことを実感した。
Mとたまに食事に行くと人生相談を受けた。当時は同棲中であり、客とのアフターをすると嫉妬から暴力を振るうビデオ屋で働くフリーターの男のことで悩んでいた。
男からみれば女が手が届かないとこへ行くのが耐えられず暴力を振るうのであろうが論外であった。
その後も違う好きな男ができ、結婚をしたいと言って相談をされたことがある。それ以外にもこちらがカウンセラーのように会うたびにお悩み解決をした。Mとは恋愛関係とは程遠かったが、えらく馬があい、変化してゆく姿を見るのが楽しかった。
その後、Mはキャバクラ(すすきのではニュークラブという)にヘッドハンティングをされた。同時に暴力を振るう男のアパートから出てマンションへ移った。
有名なキャバクラであったが、そこでもNO.2になっていた。久しぶりに顔を出したが、初めて会った頃のあどけなさは消えており、売れっ子のホステスの姿になっていた。
私はキャバクラの雰囲気がどうも苦手であった。エンペラーのようなほのぼのしたものがなく、すべてシステム化されている。ひとことでいえば遊びごころが無く、誘うのが目的の客が多く、キャバクラへはそれ一度きりであった。
そこでは、世の中から会話やプロセスを楽しむ余裕がどんどんと失われてゆくことを感じた。
暫くしてMはすすきのでは最高級といわれる新興のクラブにハンティングされた。座って5万円、ボトルを入れて7万はかかるのでとても行ける身分ではない。よく電話やメールを貰ったが、店が変わる度にMに足が遠のくようになった。
ところが3年前、スーツ姿のMと偶然、すすきので出会った。一瞬、オーラを出しているMを見て手が届かないところへ行ってしまったようなかんじがしたが、立ち話をするとすぐに昔へ戻った。
翌日、旭ヶ丘で遅いランチをした。一緒に食事をするのは2年年ぶりである。
「エンペラー」時代の昔話で盛り上がった。ふたりで小樽の雪明りの祭りに行った時、雪でJRが止まり、遅刻をして店へ入れてもらえず、日払いの1万円が貰えないで半べそをかいていた話など懐かしかった。
Mは「何でOさんは私が水商売が向いていて、そっちで仕事をした方がいいと言ったのですか。1,2回しか会っていないのどうしてそれがわかったのか不思議で」と訊かれた。
これは経験というよりは、勘みたいなものだと答えた。さらにMは「そう言われて後から暗示みたいに向いているんだと思うようにしたの。店の人は上手いこと言うけどお客さんでそんなこと言う人あまりいないから今のクラブに移る時もその言葉を思い出して決めたんだ」と言った。
「予想」が的中したわけだが、ここまで大きくなるとは思わなかった。Mには天性の素質があったような気がする。これはいくらキャリアを積んでも備わるものでなく、気質のようなものであろう。
水商売の仕事は生身の姿が出るので、単なるお色気やクチ上手だけでは長続きせず、プロとして成功するにはもっと深い部分が求められると思う。
私が知っている限り、長くお店をやっている方は皆さん人柄がいい。こちらも信用しているから長いつきああいになるのであろう。これはどんな仕事でもいえることであるが。
Mの場合、当初の無欲さ、自然でフェアな振る舞いが結果的に花を咲かしたのではないか。また、夜の仕事をしている女性のなかでは時間に正確で、几帳面である。
Mとは次回に札幌へ来る時は必ず店を寄ると言って別れを告げた。
それから3年が経過したが、まだ店へ足を運んでいない。Mは今年で28歳になった。この2年、バッタリ連絡がなくなった。
今回は「観光研究所」の内容には合わない話をしたが、エンペラー、経営する青木商事さんとは不思議な縁がいくつかある。閉店を聞いてMのことを思い出し、書いてみたくなった。
どうしているか。
ススキノの顔、「エンペラー」が閉店
2006年08月11日掲 載
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エンペラーの入口にあるショーの告知 有名歌手は月1,2回であるが以前は毎夜出演していた
札幌・ススキノに「エンペラー」というマンモスキャバレーがあるのをご存知であろうか。
有名芸能人のショーが見られ、800人を収容できる規模で一時は札幌市内観光バスのコースにも入っていた店である。そのエンペラーが9/9で廃止されることになった。大変ショックである。
ここにはいろいろな思い出がある。たまたまエンペラーがある青木ビルの屋上に私が以前勤務していた会社のネオンサインがあった。今から13年ほど前だがそれを撤去することになり、広告宣伝担当であった私は挨拶へ行った。
その後に案内されたのがエンペラーであったが、生まれて初めてキャバレーというものに入った。チャイナドレスや和服を着た数え切れない女性がおり、フロアーを走り周っている。多分、100人はいたであろう。店には活気があり、笑い声や歓声がこだましていた。
ホステスさんはおばちゃんから若い子まで千差万別であり、まるで動物園のよう。お客さんも面白い人が多く、ボックスでうつ伏せになり、マッサージをしてもらっているオジサン。新聞紙から魚の燻製を出し、ホステスに振舞う漁師町から来た人など見ているだけで飽きなかった。
道内の地方から来る客が多いことを後で知ったが、ここに来るのを楽しみにしていたことが傍目にもわかった。
その後、エンペラーには、札幌へ行くとたまに顔を出すようになった。
エンペラーには八柳鉄郎さんという有名なマネージャー(当時は専務)がおられた。ススキノを舞台にした多くの著作を残しており、氏ならではのシュールで暖かい作風に惹かれ、殆んどの著作を読んでしまった。テレビの人生相談や雑誌のエッセーなど書かれており、北海道の方はご存知の方も多いであろう。
ちょうど八柳さんがフロアにいらした時、思い切って声をかけてみた。お客様から著書のファンだといきなり言われたのは初めてだと恐縮しておられたが、その後、何回か手紙のやり取りをさせていただいた。
ある時、八柳さんに挨拶へ行くと「Oさんの手紙に書いてあった文章、感動しましたよ。こないだの全員ミーティングで使わせていただきました」と言われ、穴があったら入りたい気分になった。
最近はエンペラーにも足が遠のき、八柳さんにもお会いしていない。既に75歳ぐらいのははずだがお元気でいられるのであろうか。閉店までに是非一度、顔を出したい。
エンペラーの話はいろいろあるのでまた書きたい。
23年に渡り世界の難民にメガネを贈った会社
2006年07月05日掲 載
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は4日、難民救済への貢献をたたえるナンセン賞を富士メガネ(本店・札幌市)の金井昭雄会長(63)に贈ると発表した。日本人の同賞受賞は初めて。
金井会長は、メガネ店のスタッフとともに「視援隊」を組織。1983年からタイ、ネパール、カンボジア、ナイジェリアなどで難民キャンプ訪問を続け、難民の視力検査やメガネの寄贈活動を続けている。これまでに贈ったメガネは10万組以上にのぼる。(読売新聞)
富士メガネの慈善活動の話は以前から聞いていた。世界の難民の視力検査やメガネの寄贈活動に絞り込んで23年も続けてきた。企業の慈善活動(フィランソロフィ)でここまで地道に継続してきたという例はあまり聞いたことがない。まだ、メセナやフィランソロフィといった言葉がない時代からの活動だ。富士メガネには失礼だが、北海道のいち中堅企業が続けてきたというのも驚きであり、まさにミッションといえる。
時流に流されない使命感があったからここまでできたのであろう。
一般的に北海道の企業は広告にお金は掛けてもこういったことには無関心である。北海道に限らず日本どこでも最近は余裕がないので地道な社会貢献などどこかへ飛んでいってしまった。
量販店や安売り店が攻勢をかけるメガネ業界にあって23年の長きに渡り、メガネを贈り続けたという事実は賞賛に値する。
まさにホンモノであり、こういった企業はもっと評価されていいのではないであろうか。
わざわざ富士メガネで眼鏡をつくってみたくなった。
