道内秘境バスとバス停めぐり+おまけ
2011年04月09日掲 載
増毛町雄冬・・・・
石狩と留萌支庁の境界でにある雄冬。北海道中央バスと沿岸バスの境界線でもあるが、管理人が訪れた3月31日をもって中央バスの「日本海るもい号」は廃止された。「沿岸バス」は増毛経由の札幌羽幌線を一日1往復で継続されている。12時25分発留萌市立病院行きが待機中。
留萌市留萌神社下・・・・
1路線のみの「てんてつバス」(留萌-達布)。以前から留萌側の始発「留萌神社下」バス停の場所がわからずいたが遂に発見した。留萌神社周辺にあるものかと思っていたが、だいぶ下った大通りにあった。先端が捥げたのか不思議な形をしたバス停。そして凄まじい待合室。外壁にはいつのものかわからない「JALPAK」の看板。待合室内は何と観光バスのシートが並び、発車1時間前にも関わらず先客の荷物が置かれてた。灰皿も味がある。
士別市士別駅前と朝日ターミナル・・・・
「士別軌道バス」の「士別駅前」の字体がよろしい。武徳行きバスは「予約制」というのが気になる。バス停の背がやけに高いのは雪対策か。アーチ型のデザインが面白い。士別駅傍にある車庫では古いバスを発見。17年前にこのタイプのバスで岩尾内まで乗車したが当時は茶系のボディであった。なお、朝日方面は路線が縮小されて朝日町ターミナルまでに。岩尾内湖方面は代行の市営バス(マイクロ)登和里行きに乗り換える。今度は名士バスを訪ねてみたい。
ここからはおまけで札幌市内編。
大通夕鉄バスのりば
大通からひっそり出る「夕鉄バス」。夕張行きは廃止され、南幌とあけぼの団地行きの4便に縮小された。中央バスの「高速ゆうばり号」は健在(乗り場は駅前ターミナル)。かつて美鉄バスの大夕張行も京王プラザの前から人知れず出発していた。
北海道バス札幌駅前のりば
話題の「北海道バス」。旧五番館西武横にある札幌駅前停留所。ウィラーを意識したバス停カラー。この日(4/2)は何と続行便があった。
北海道ローカル路線バスで秘境旅 釧路駅-弁天ケ浜(たくぼく循環線)「啄木と挽歌の街を行く」くしろバス 後編
2010年12月18日掲 載
ところで、ここまで来る途中のバス停の名前が粋である。幣舞橋を渡ると、「啄木通り」・「小奴(こやっこ)の碑」・「啄木ゆめ公園」・「休み坂」・「波止場通り」・「米町公園」と続く。このバス停名称は2010年現在のものだが、以前は違っていたような気がする。寂れた通りを啄木で売り出そうとしているのかもしれない。
米町の交差点を曲がると寺町となり、「釧路崎灯台」のバス停がある。灯台へは寺の横の急坂を登らなければ辿り着けない。実は灯台の下は断崖絶壁、太平洋が眼前まで迫っている。真下は狭い砂浜だが何とここを鉄道が走っている。
先ほど通った米町をバス路線とは反対側の海岸(知人岬)方面へ行くと、国内唯一の海底炭鉱「太平洋炭鉱」(現・釧路コールマイン)がある。釧路崎灯台下の崖から見下ろすと右側に貯炭場があり、石炭の山になっている。ここと春採の海底炭鉱・採炭場を結ぶ貨物列車・釧路臨港鉄道が今でも走っている。
左・釧路崎灯台 右・灯台の真下にある釧路コールマインと炭鉱鉄道
わたしがこの場所を知ったのは、釧路初訪問から数年した後だが、霧がかかっていることが多く、霧笛が響き渡っていることも多い。また、夜にここを訪れると、クルクルと回転する灯台のサーチライトが幻想的であった。この場所も何度も訪れているお気に入りだが、これまで観光客はおろか地元の人にも会ったことがない隠れスポットだ。
ここの霧笛はGPSなどの発達もあり、2009年限りで廃止になってしまった。炭鉱の方も一度、閉山が決定したが、2002年に採掘を再開。アジアからの研修生を受け入れて、炭鉱技術を教えている。国内唯一の貴重な坑内掘削型の炭鉱である。また、霧笛も保存が決まり、MOOの対岸にある旧「くしろ地ビール」に保存されると聞いた。
「釧路崎灯台」から少し行くと終点・弁天ケ浜だ。バス停の前は太平洋。道路もここで尽きるが、海岸へ出るには先ほどの炭鉱鉄道の踏切を渡らなければならない。炭鉱鉄道は今では一日2往復程度しか走らないようで、もし列車に遭遇できたらラッキーかもしれない。私はこの踏切が閉まったのを一度しか見ていない。
左・弁天ヶ浜の踏切を通る炭鉱鉄道 右・釧路崎灯台から炭鉱鉄道と選炭場を見下ろす
ここにも啄木の歌碑があり、「 さらさらと氷の屑が 波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな」とある。碑の周囲はハマナスで覆われており、秋風が吹き、赤い実が腐り始める時期に訪れると、旅情をかんじる。この弁天ケ浜と釧路崎灯台、米町公園は釧路を訪れると必ず寄る場所である。
弁天ヶ浜終点風景 以前は米町行きと表示されていた
バスはここで折り返すので暫く停車をする。周囲にはマンションなどもあり、数人の乗降客はいるが、終着バス停に相応しい場所である。以前はここでバスは同じ道を戻ったが、最近は「たくぼく循環」という名称に変わり、南大通から見ると急峻な丘の上に見えた住宅街方面を立ち寄り、途中、花時計のロータリーで合流するルートに変更になったようである。
今は静かな住宅街になっている終点バス停だが、昔はこのあたり遊郭があったようで、30年近く前まではその名残を示す古い旅館があったらしい。
米町から住宅街方面へ入ると、かつての遊郭街・浦見町があり、「しゃも寅」の井戸という名水があった。浦見・米町地区には所々に水が湧き出ており、江戸時代には飲料水や地酒の醸造にも利用されたらしいが、この付近には料亭「しゃも寅」があり、それ以後「しゃも寅の井戸」と呼ばれてきた。明治41年に釧路新聞社の記者として赴任した石川啄木が、料亭しゃも寅の芸妓・小奴と情交を深めたことでも知られる。 このあたり、かつては定期観光バスのルートにも入っており、観光スポットのひとつ。現在も井戸水は湧き出ているが、飲用はできない。
弁天ケ浜行きくしろバス。今は「たくぼく循環」となり、この浦見町界隈も行きか帰りのどちらか通る。確かに啄木に縁のある場所を周っている。というより、この南大通から米町全体がかつての中心街であり、啄木がはたらき、そして小奴などど遊んだ場所なので自然と集約されているのであろう。
またこのあたり、小説「挽歌」の舞台になっている。昨年亡くなられた原田康子さんの原作、昭和30年代初頭の社会現象ともなったベストセラーだ。
原田さんはマスコミに殆ど登場しない作家だった。また、作家歴の割には作品数も少ない。作風同様、神秘的なイメージがある方だが、わたしが名前を知ったのは1990年の釧路旅行時、ちょうど原田さん原作で原田知世主演の「満月」が上映されていた。それもきっけとなり、かなりの長編「挽歌」にトライ。フランスのサガン登場時と共通する瑞々しさとロマンチズムがあったと何かに書いてあったが確かにそうかもしれない。
だいぶ前にビデオで「挽歌」(昭和32年作品 五所平之助監督)を見たが、当時の釧路の町はとても日本とは思えない。原野に一本道、まるでロシアか北欧のようで、映画の中でも霧が多く登場する。50年代フランス映画のような日本なのに異国情緒ある作品である。釧路の広大な風景と当時としてはモダンな家とインテリア、そして何といっても主演の久我美子が原作のイメージを厳守している。映画のなかで久我の実家が南大通の急坂から登りきった丘の上にあったようだ。相生坂と云うが、挽歌坂ともいうらしい。
ロータリー前から登るいちばん幅が広い出世坂と映画「挽歌」主役の久我美子
原田康子さんは「髪が長く、ガリガリに痩せていること」ことが女学生・兵藤怜子役の絶対条件にしたらしいが、久我はそれにピッタリであったので安心したという。当時、人気急上昇のオードリーヘップバーンをかなり意識し、トレンチコートに黒のタートルネック、同じく黒のパン ツにローファーは今見てもカッコいい。また、煙草をふかすシーンがあるがこれもきまっていた。また、玲子と恋仲になる中年建築家・森雅之が素晴らしい。わたしはこの俳優が大好きだが、日本映画史上これだけ品のある人物はいないと確信している。なお、この作品の衣装担当は森英恵さんで音楽は芥川也寸志という豪華版である。
話がそれたが、挽歌の舞台もまた「たくぼく循環」周辺である。釧路の旧市街は時が止まり、過去をそのまま引継いでいるように思える。小樽のような歴史的建築物は少なく、かつての栄華を知るすべもないが。
わたしは20年間釧路の街を歩いてきた。その間、中心街の閑散化は加速度的になっている。ドーナツ化減少により、北大通にあった商店の半分近くはシャッターを閉め、廃業したか、新しい商業地となった郊外へ移動している。戦前からあった老舗百貨店も札幌の大手デパートに買収されたがそこも閉店。入るテナントもなく、既に数年が経過している。20年前訪れた南大通が今や北大通になっており、衰退が止まらない。
廃業後4年以上が経過したが新しい入居者が見つからない丸井今井跡
釧路はかつて日本一、一人あたりの飲食店の数が多い都市といわれていたが、スナックも減り、大型キャバレーもなくなった。今では空っぽのテナントビルや空き地が目立ち、ホステスさんの姿も激減した。1992年頃まではチャイナドレスを着たホステスが古ぼけたキャバレーの前で呼び込みをしており、「銀の目」、「香港」などという大型店が残っていた。釧路のそのキャバレーは昔、大成功し、札幌へ進出。ススキノに「エンペラー」という日本一巨大なキャバレーをつくり、毎晩一流芸能人のショーが楽しめたが数年前に閉店。その会社も倒産し、今は外資系ホテルとなっている。
左・1992年頃まで営業をしていた「銀の目」と「香港」 右・めっきり店と客が減った飲み屋街
炉端焼き、ざんぎ発祥の地と言われているが、どこか不器用な印象の釧路。隣の十勝とはあまりにも気質が違い過ぎる。
初めて釧路のホテルに泊まった夜、フロントに人に飲み屋を紹介してもらった。わたしは居酒屋を訊いたつもりでいたが、フロント氏は「社長のボトルで呑んで下さい」とスナックを紹介した。考えられない話だが、朴訥とした人のよさが釧路人の魅力である。 霧と澄みわたった空と夕陽、両極端な天候を持ち合わせており、それは釧路人の気質のようにもかんじる。人なつっこくて繊細さと粗雑さの両面を持っているような気がする。
釧路の原点を体験できる路線バスが弁天ケ浜行き(たくぼく循環)である。釧路駅から僅か15分の距離、歩こうと思えば歩ける距離だが、釧路で滞在する時間があれば、是非この路線バスに乗っていただきたい。特に終点・弁天ケ浜の寂寥感がたまらない。眼の前は太平洋と海岸に沿うように走る殆ど来ない炭鉱鉄道の線路。いつも波の音だけが聞こえてくる。わたしにとってはとっておきの「秘境」でもある。
■くしろバス たくぼく循環線
釧路駅から内回り・外回りが約20分間隔で運転 弁天ケ浜までは所要15分 200円
北海道ローカル路線バスで秘境旅 釧路駅-弁天ケ浜(たくぼく循環線)「啄木と挽歌の街を行く」くしろバス 前編
釧路駅前に停車する「たくぼく循環バス」と啄木像
8月以来の「北海道ローカル路線バスと秘境旅」をアップします。
道東最大の都市、釧路駅へ降り立つと、はるばる遠くまでやって来たという実感がこみ上げてくる。釧路には数十回降り立っているが、何度来てもこの感覚は変わらない。
「はるばる来たぜ」で有名な函館は青函トンネルが出来てから、「はるばる」という感覚が薄らいだ。何しろ駅舎も北欧風のものに建て替えられ、無機質な印象が強くなり、旅愁というイメージではなくなった。北海道の玄関口には変わりないが、やはり賑やかな観光地である。
その他の道内都市、たとえば旭川や帯広に降り立っても、旅路の果てという意識は少なく、いち地方都市に来たに過ぎないという感覚だが釧路はどこか違う。
北海道を流浪した俳人・石川啄木が釧路駅に降り立ったのが、明治41年の1月のこと。100年以上も前のことである。その時の印象を「さいはての駅に降り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んでいる。
五木寛之(ペンネーム立原岬)が作詞した演歌に「旅の終わりに」(冠二郎 歌)という曲がある。
『流れ流れて さすらう旅は 今日は函館 明日は釧路』というフレーズだが、時代が変わってもこの街の印象は変わっていないようだ。
わたしが初めて釧路駅に降り立ったのは啄木が来釧してから約80年後の1990年2月のことだ。特急「おおぞら」の扉が開くと、、冷気がいっきに襲ってくる。北海道で言う「しばれる」とはこのことを指すようだ。マフラーをしっかりと締直し、改札から駅前へ出ると、とっくに陽は沈み、周囲は閑散としており、街全体が凍りついたような印象だった。
釧路駅からホテルまではタクシーに乗った。歩けない距離ではなさそうだが、このしばれと暗い駅前を見て、気持ちは萎えている。タクシーは北大通を幣舞橋方面へ向かい、橋を渡ってロータリーを左折、川岸に出来たばかりのホテルへ到着した。運転手は無言であったと記憶している。
左・釧路キャッスルホテル 右・ホテル客室から眺める幣舞橋
お城のような大変ユニークな外観であったが、ここは釧路出身の建築家・毛綱 毅曠(もづな きこう)氏が設計した釧路キャッスルホテルであった。新釧路川(幣舞橋)を挟んだ駅側には、観光シンボルとなっている「フィッシャマンズワーフMOO」があり、ここも毛綱氏設計のもの。後で知ったことだが、市内には氏設計による多くのポストモダンン風の建築物がある。
非機能的と云うか無駄なスペースも多いが、シルエットは美しく、大型施設の多くがバブル期に作られているので、その時代をかんじることができる建物が多い。
ホテルへ来る途中、大きな花時計とロータリーがあった。
日本ではロータリーはあまり見かけず、道内で大きなものは旭川とここ釧路ぐらいではないであろうか。このロータリーを周回し、古い民家が立ち並ぶ道路に入るとかつての中心地・南大通である。
釧路は幣舞橋を挟み、駅側を北大通と呼び、官庁街や末広町・栄町などの繁華街があるが、もともとは橋の南側の南大通がメインストリートであった。このあたりは啄木ゆかりの場所や釧路を全国的に知らしめた小説「挽歌」(原田康子)の舞台になったエリアだ。もっとも港町・釧路らしい風情が残り、歴史が詰まっている通りと云える。
この南大通方面へは釧路駅から「弁天ケ浜」行きのくしろバスが出ているが、私が釧路ではじめて乗ったバスがこの路線である。駅前通(北大通)から幣舞橋を渡り、南大通へと入り、旧市街を立ち寄りながら港町から海へ、終点の弁天ケ浜で道路は果て、先は太平洋、炭鉱鉄道の踏切り前が終点で、ひっそりと啄木碑が建立されている。
弁天ケ浜行きバス乗り場は釧路駅バス乗り場1番、バス系統も1番なので由緒正しき路線なのであろうか? この区間を走る「くしろバス」は1989年までは「東邦交通」と名乗っていたが、私が初乗車した頃に今の社名にあらためている。
釧路市内にはもう一社、車体に大きな鶴が描かれている「阿寒バス」があるが、くしろバスも最近では丹頂鶴をイラストしたバスを走らせている。 やはり、鶴の町である。
くしろバスはおもに釧路海岸部、厚岸や霧多布方面、白糠など太平洋沿岸に路線を張り巡らせている。1990年、私が最初に乗ったバスは恐ろしく古い代物であった。旧東邦交通時代のカラーらしく、車体は薄茶色で赤と紺色の帯が入っている車両だ。あまり趣味のよいデザインではなく、何となく淀んだ気分にさせてくれる。
くしろバス旧東邦交通時代の車両
車体は錆付いていたが、釧路のバス車両全体が錆付いていることに気付いたのは、この初乗車の後だ。釧路は霧で有名だが、海霧ですぐに錆びてしまうらしい。釧路ナンバーの中古車は買取相場が安いという。真偽は定かではないがそんな噂をきいたこともある。
お城のようなホテルに泊まった翌日、ホテルで啄木散歩マップを貰ったので、起点の釧路駅まで戻り、足跡を辿る路線バスに乗車した。釧路駅前を出発した弁天ケ浜行きのバスは広い北大通を南へ向かう。歩道を行く人の多くは高齢者で、男性は襟に毛が付いたような紺色のジャンバーを着ている人が目立った。競輪や競艇など公営ギャンブル帰りの客のように、背を窄めて歩いていた印象がある。釧路は中心街の空洞化が問題になっているが、既にこの当時から大通は閑散としていた。
途中、十字街という駅前通りの中心を通る。多くのバスがここに立ち寄るので、バス停は賑わっていた。すぐ先、釧路のシンボルである幣舞橋の右側にはサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフにならった海産物中心のモール「フィッシャマンズワーフMOO」が見える。西武(セゾン)グループによって作られた巨大な建築物は、前述した毛綱 毅曠氏がデザインし、MOOと云う名称は糸井重里氏が名付けた。当時、糸井氏は「おいしい生活」などのキャッチコピーで大人気、コピーライターという職業を花形にした人だが、西武系の仕事が多かった。
幣舞橋の川べりには小さな漁船が停泊しているが、MOOの前には観光船のクルーザーも休んでおり、新しい釧路と古い釧路が共存しているかんじだ。前述した花時計下の日銀前のロータリーを回ったバスは南大通へ入る。
一歩、通りへ入ると近代的なビルがなくなり、閉ざされた商店や廃屋が増えてくる。歩いている人の数も極端に減る。右手が港で左側は急な丘になっている。ほとんど崖と云ってもよく、丘の上にも民家が並んでいる。 かつて市内唯一のホテルであった釧路東映ホテル(現・ホテルロイヤルイン 1987年頃に釧路駅前へ移転)も1985年頃までこの丘の上にあったらしい(現在は寺院になっている)。
左・啄木ゆめ公園バス停前 右・壁面に啄木の句が書かれてる釧路シーサイドホテル
このあたりが釧路の旧市街であり、啄木と恋仲であった芸者小奴にまつわる史跡も多い。釧路市では啄木コースと名付けて、観光ルートにしている。実は啄木がどういう人物かほとんど知らなかった。貧困、流浪、夭折といったイメージ程度なら浮かんだが、函館-札幌-釧路と道内を転々とし、新聞記者をしていたことさえも初耳で、正直、物見遊山の見学だった。
最初に降り立ったバス停が米町公園であった。米町公園は古くからある釧路を代表する観光スポットであり、米町周辺が釧路発祥の地と云われている。。バス停から坂を登ると右手に小さな公園があり、釧路港が一望できる。正面には製紙工場の煙突、晴れた日には阿寒の山々を見渡せる。今は灯台を模った展望台があるが、登っても、登らなくてもあまり景色は変わらない気がする。しかし、古くから釧路のシンボルのような場所だ。
ここにも啄木の歌碑がある。「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」と詠んでいるが、わたしが初めて訪れた時は釧路港に氷が浮かんでいた。その後、釧路を訪れると決まりごとのようにこの公園を訪れる。特に天気がよく、空気が澄んだ朝がよい。釧路へ来たことが実感できる米町公園だ。
晴天の米町公園から阿寒連山の望む
北海道ローカル路線バスと秘境旅 函館-木古内-小谷石(函館バス)後編
2010年08月07日掲 載
目に飛び込んできたのは「駅前飯店急行」。いい名前だ。相当鄙びているが、「名物やきそば」の幟が出ている。ドア越しから店内を覘いてみると2組の先客がおり、この駅前にしては盛況だ。他に店もなさそうなので、”木古内焼きそば”の店に入ってみた。
店内は昭和40年代の食堂そのものである。いったいいつの時代かわからないポスターが沢山張ってある。メニューを見ると、名代・焼きそば弁当700円、焼きそば700円、大盛が千円である。焼きそば弁当が気になり、店主と思しき、おばあちゃんに訊くと、単なるテイクアウトとのこと。やはり、焼きそばが名物のようなのでガラナジュースと共に注文をした。
出てきたものは、ソース味とも醤油味ともつかぬ、さっぱり目の焼きそば。蒲鉾が入っているあたり懐かしい昭和の味だが、今まで経験したことがない味付けである。ソースをたしたが、ガラナと焼きそばの相性がよい。
テーブルに新聞のコピーが置いてあり、目を通すと、「駅前飯店食堂」はこのおばあちゃんが50年近く経営してるそうだ。「駅前急行」というネーミングも時代を感じる。青函トンネルが完成する以前、ここには函館方面から松前や江差へ行く急行列車が停車したので、この屋号になったのではないかと推測する。50年前は北海道に特急列車はまだ走っていなかったはずで、「急行」が最優等列車なのだ。
ちょうど千円を払い、すぐ前のバス停へ向かった。12時35分発の松前行きが先に待っていた。こちらは始発である。すぐに駅前通りから小谷石行きバスが入ってきた。2台のバスが木古内駅前に並び、なかなか豪勢な揃い踏みである。
意外にも木古内では誰も降りず、乗客はひとり。車内に乗り込むと、乗客は中高年の女性が5人と男性2人。日曜日なので多いのか少ないのか判断が付かない。
わたしが頻繁にローカル路線バスの乗車をした1990年代前半は如何にもお年寄りといった客が多かったが、最近は前よりも若返っている気がする。杖をつくようなお婆ちゃんはみかけなくなり、その代わり、ちゃんと化粧をして、携帯電話も持っているような60代ぐらいの人が目立つ。
理由は定かではないが、病院の送迎バスの充実や、お年寄りのアンチエイジングもあり、昔よりも若く見えることも関係しているかもしれない。
木古内を出たバスは市街地からふたたび国道へ入り、海岸沿いをひた走る。国道228号線を左折すると知内の中心街だ。
知内出張所で数人が下車。知内は北島三郎の出身地として有名だ。彼は函館の進学校出身だが、知内から汽車で通っていたのであろうか。
ここは漁師町のイメージが強いが、なかなか海は見えず周囲は畑が目立つ。知内の中心を過ぎると巨大な鉄塔と無機質な巨大な建物が見えてくる。知内火力発電所だが、その先が海のようで、段々と民家も減ってくる。
また、発電所の反対側には「こもれび温泉」という新しそうな日帰り温泉施設があった。路線バスも便によっては、温泉まで立ち寄る。知内と云えば、青函トンネル近くにある知内温泉が有名であるが、火力発電所のすぐ傍に豪華な公共温泉が出来るとは何とも意味深である。
道道531号線は湧元を過ぎると、蛇ノ鼻岩、狐越岬、ナマコ岬、猿人岩など形も名前も奇妙な奇岩怪岩が連なった海岸線となる。そして、民家も完全になくなる。この日は風が強く、霧雨が降る悪天候。バスは岩礁が連なる海岸線を抜けると、こじんまりした小谷石の集落が見えてきた。海にへばりつくように民家が並んでいる。老女がひとり乳母車のようなものを押しながら強風の中、歩いている。
民宿の前に最初のバス停があり、そこからせいぜい2,300メートル走ったであろうか、終点の小谷石バス停である。降車客はわたし以外ゼロ。ローカル路線バスの終着は既に空っぽになっていることが多い。ダイヤでは13時10分到着だが、少し早めに着いた。折り返しが13時29分発なので20分程度時間がある。
運転手に折り返しに乗ることを告げると下車し、集落を歩いてみた。
バスの折り返し場には昔の郵便ポストがあり、その脇には冷鉱泉のようなものが山から流れてきている。霊泉なのか丁寧に祀られており、島牧村・栄浜にあった「栄浜霊泉」を思い出した。名前も「薬師湯」とあり、湯ではないが、霊験あらたかなのであろう。コップがあったので、ひと口含んでみると軽い硫黄臭があるが、効きそうな鉱水だ。この水を湧かして、お風呂にしたら素晴らしい泉質になると違いない。
バス停から先がどうなっているのか気になって歩き始めたが、すぐに道は狭くなり、行き止まりになった。民家の間を抜けたが、そこから先は何もない。このバス停とともに、小谷石は尽きており、この先に矢越岬があるが海からでないと行けない。
誰も歩いていない。ピンク色のかわいいペンションがある。「ホットタイム」という名前だが、この場所にしては違和感がある。きっと地元の漁師さんの奥さんが頑張ってやっているのであろう。テレビ番組で見た民宿も健在である。「海峡の宿」と書いており、十分立派な旅館の佇まいだ。
海岸の一本裏手の通りにまわってみた。人が集まっている。近寄ってみると公民館の前で海鮮バーベキューを地元の小学生や親御さんがやっている。贅沢にもアワビを焼いている。
見慣れない人物が歩いているので、ジロリと一瞥された。これが旅番組であれば、「何を焼いているのですか」と訊いて、いつのまにか輪の中に入り、おすそ分けを貰う。そして、アルコールも入り盛り上がるのであろうが、現実は違う。
こちらは肩身が狭いかんじで、小さな声で「こんにちは」と呟いたつもりだが反応はなかった。きっと聞こえなかったのであろう。
ふたたびバス停に戻った。まだ、発車まで時間は余っている。運転手は外でタバコを吹かしていた。
「戻りました」と告げ、バスに乗り込んだ。いつもならこういう時、運転手に話しかけるのだが、話題が出てこない。天気のせいか少々アンニュイである。
バスは13時29分、定刻通りに出発をした。すると運転手の方から話しかけてきた。
「お客さん、どこまで?」
木古内か函館まで通しで乗るか決めていなかった。
「とりあえず、木古内まで」。
とりあえずというのも変だが、どちらでもよかった。
会話はこれだけ。わたしのことを珍客と運転手と思っていたであろうと、勝手に予想を立てていたが、こちらの自意識過剰であったかもしれない。運転手と一対一だとどうしても、過剰に反応・適応してしまう傾向がある。こういうところに己の性格が出てしまう。
帰りのバスは「こもれび温泉」に立ち寄り、数人の老人が乗り込んできた。アルコールが入っているのか、湯上りのせいか、浜焼けなのかわからないが、赤ら顔でご機嫌である。急に温泉に入って帰ろうかと思ったが、次のバスまでは2時間半ある。
結局、乗客は木古内で降り始め、またしてもひとりになってしまった。これからマンツーマンは疲れそうだ。停車時間があったので、後を追うようにわたしも降りて駅構内へ向かった。
木古内駅で20分ほど待つと青森方面から特急「スーパー白鳥」がやってきた。自由席に飛び乗り、中腹まで雲で覆われた函館山を車窓に見ながら30分強の乗車で函館へ着いた。
バスに沿うようなルートで鉄道も走るが、線路は道路よりも高台にあるので、見晴らしはいいが、やはり路線バスの方がじっくり観察するには向いていると再確認をした。
日曜日の午後、駅は観光客で賑わっていた。この場所で「小谷石」を知ってますかと訊いたら、何人反応するであろうか。朝市前の通りを歩きながら宿へ向かった。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 函館-木古内-小谷石(函館バス)前編
道南・渡島半島は険しい山が多く、海岸近くまで迫り来るような場所が多い。そんな険しい所にも古くから集落があり、行き止まりのような所に生活を営んでいる人々がいる。特に函館周辺には、海岸線をぬうように、小さな漁師町まで路線バスが足を伸ばしており、「秘境バス」の題材には打ってつけだ。
今回訪問をする知内町・小谷石は標高7、800メートル級の険しい知内山地がそのまま海に落ちるような急斜面下にある小漁村だ。平成20年度の総人口 199人 世帯数 84世帯の集落へ函館から路線バスが一日3往復通じている。函館市民に小谷石の名前尋ねても、殆ど知るものはなく、地名からして、秘境感が漂ってくる。
これまで、「ローカル路線バスで秘境旅」では、過去にバスで訪ねた場所を再訪することを原則にしていたが、今回は初訪問のバス旅である。
実は小谷石の存在を知ったのは、土曜日の夜にやっているテレビ東京系(TVH)の旅番組で取上げられたのがきっかけだ。奇岩怪岩が連なる壮観な海岸線にイルカの群れ、そこを民宿の漁船が案内してくれる。そして、驚くほどの獲れたての海の幸のご馳走、画面だけを見れば知床と区別が付かず、道南にこのような隠れたスポットがあるとは知らなかった。
早速、地図で調べると、福島町から知内町にかけての海岸線は、道路が通じておらず、国道228号線通称・松前街道も迂回するように内陸側を走っている。福島町側からは道道532号線岩部福島線、知内町側からは531号線小谷石知内線がそれぞれ岩部と小谷石で行き止まりとなっており、その間、十数キロキロが手付かずの状態で残っているのだ。
道南では珍しいネーチャー・スポットのようである。勿論、ガイドブックにも殆ど載っておらず、知られざる北海道の「秘境」かもしれない。松前・矢越道立自然公園にも指定されているが、「矢越」という地名自体、初耳である。
何と言っても、”自称・北海道通”としては、テレビで自分が知らない場所を紹介されたのは初めてのことであり、意地でも行かなければと、行動に出た。
早速、テレビ番組で紹介された漁師民宿に電話を入れてみた。ところが札幌に用事があるので、その日は閉めたいと言われ断られてしまった。何回か経験しているケースである。
それからだいぶ経った2010年5月、函館へ行く用事があり、思い立って現地へ行ってみることにした。
2008年発行の時刻表を見ると、小谷石へ直通する路線バスは一日3本あり、さらに木古内始発のバスも3本ある。また、JR江差線が国道に沿うように通じており、JRからバスに乗り換えてもよい。
小谷石行き函館バスが発車する函館駅前ターミナル6番乗り場は、同じ道を走る快速松前行きや恵山、鹿部行きなど比較的距離の長い路線バスが出るようだ。
函館バスのホームページを見ると、小谷石行きの時刻は載っていない。以前は「道内時刻表」(交通新聞社発行)に掲載されていたが、最近は観光路線以外は削除されてしまいダイヤがわからない(小谷石行きは観光路線ではなく生活路線ということであろう)。仕方なくバス案内所でペラ紙の時刻表を貰った。これで見ると木古内発の3本のバスは消えており、すべて函館発。便数は半分までに削られてしまった。最近のローカルバスの削減は急ピッチで、この先が思いやられる。
しかし、直前まで時刻がわからないのもバス旅の醍醐味である。
函館駅を出発した路線バスは函館湾に沿うように国道228号線を進んでいく。暫く走ると反対側に函館の町並みと函館山が見えてくる。ほぼ江差線に沿って走っているので鉄道車窓からの眺めにも近いが、上磯(現・北斗市)にある太平洋セメント上磯工場の海上桟橋が面白い。国道の上から海上(函館湾)に向かって全長6.2kmの長距離ベルトコンベアが敷かれている。その突端から大型船で石灰石が運ばれていく施設だが、コンクリートの橋脚が延々と続く、なかなか壮観な眺めだ。列車からもよく見れるが、バスだとさらに近く、ゆっくり走るので観察することができる。
海岸線を淡々と走り、函館駅から1時間ほど行くと当別駅前というバス停がある。江差線の渡島当別駅がある場所だが、バス停を降り、踏切を渡ると男爵資料館が見えてくる。木製のサイロや牛舎などが連なり、100年前のアメリカの農場に来たような景色が現れる。
ここは男爵イモの生みの親である川田龍吉を記念して作られた資料館だが、農業以外にも氏のコレクション、特に川田氏が愛用した日本最古の車「ロコモビル蒸気自動車」や20世紀初頭の米製トラクターなど珍しい博物館となっている。
この川田氏、生い立ちや生き様はニッカウヰスキー創業者・竹鶴氏とどこか通じるものがある。余市のニッカ工場ほど大きくないが、洋行した明治男の気骨のようなものを両者にはかんじる。
この資料館から20分ほど歩くと、小高い丘の上にトラピスト男子修道院が見えてくる。函館で修道院と云えば、湯の川温泉や空港に近いトラピスチヌ女子修道院が有名だが、当別の男子修道院の方が観光化されておらず、ロケーションも素晴らしい。
当別駅から坂を登りきると、真正面の丘の上に教会が見えてくる。牧草地のど真ん中に、高い樹木で囲まれた一本道があり、修道院へ向かって延びている。まるでヨーロッパのカトリック教会に来たような錯覚にさせてくれるほどの本格的な景観である。
トラピストへはこれまで何度か訪れているが、ここへ来ると厳粛且つおごそかな気分となる。曽洞宗の大本山・永平寺ともどこか共通したようなものを感じるが、永平寺はどちらかと云うと女子修道院に近い観光地だ。カトリック教会(修道院)と禅宗の古刹には独特のピリピリ感があり、宗教が違っても、私語を交わしてはいけない戒律(無言)や祈り、開墾作業など共通点も多い。
北海道土産の定番であったトラピストクッキーやバター飴はここで作られている。ここのクッキーは、さっぱりした飽きのこない味である。人さまへのお土産ではなく、いつも自分用にここのクッキーを購入するが食べだすと止まらなくなる。ここでしか買えないクッキーや飴もあるので、トラピスト=昔ながらのものと決め付けない方がよいと思う。バカにしてはならない美味しさで、粗末にしては罰があたる。
また、トラピストを訪れると石膏づくりのマリア像や十字架をこれまで何度か購入している。我が家には数体のマリア像があり、訪ねてきた友人から「マリアフェチ」と云われてしまったことがあるが、ここへ来ると贖罪の意識が芽生えるのであろうか。
当別を出発すると釜谷駅前-泉沢駅前 -札苅と江差線の駅に沿うようにバスは走る。途中、 木古内町・亀川のサラキ岬には咸臨丸終焉の地(勝海舟・坂本龍馬ゆかりの西洋式蒸気船)があり、ちょっとした公園になっている。
経由地・木古内へは函館から1時間半程度で到着する(JR利用だと普通列車で約1時間)。木古内は交通の要所であり、青函トンネルを通る津軽海峡線は、ここで江差線と合流し、江差方面と函館方面に分かれる。木古内から先はどちらも江差線だが、函館へ向かう下りが電化された幹線なのに対し、江差へ向かう上りは電化もされていない忘れ去られたような「閑線」だ。
実は、今回の小谷石行き、木古内までは江差線を利用させてもらった。これまで函館-木古内間は松前行きのバスで乗車しており、レンタカーや国道に沿うように走るJR利用など数え切れないほどこのルートは利用している。なのでアクセントを付ける意味でも鉄道&路線バスにしてみた(トラピスト修道院の記述は過去に訪問した時のものである)。
函館を10時12分発の江差行き列車に乗車し、11時15分に木古内へ到着。一両が切り離され、江差へ向かう。木古内からは12時32分発の小谷石行きへ乗り換えるが、このバスは函館駅を10時58分に発車したものだ。
木古内の駅へ降りたのは初めてだ。北海道のローカル駅の玄関はどこも似ている。客待ちする数台のタクシー、辛うじて営業している僅かな食堂や喫茶店、朽ちかけた古い駅前旅館があり、駅前広場のような場所から真っ直ぐ道が伸び、国道やその旧道にぶつかる。そちらがメインストリートになっており、駅前通りのような場所は忘れられたような存在になっている。木古内も典型的なローカル駅の風情で、どこかの駅に似ているが類似だらけで思い出せない。
昼食は小谷石でと考えたが、食べられる保証はないので、木古内で取ることにした。目に飛び込んできたのは「駅前飯店急行」である。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 寿都-島牧・栄浜(ニセコバス)後編
2010年07月22日掲 載
バスは1時間10分で寿都営業所へ到着。栄浜行きのバスまで1時間以上の待ち時間があるので狭い町を歩いてみた。
旧道沿いには「寿都劇場」と壁に書かれた映画館(劇場)を発見した。完全な廃墟であったが、ニシンの千石場所で栄えた頃は大いに賑わったのであろう。寿都はニシン漁に関する遺構が今でも点在しており、寿都湾の東側の歌棄周辺には*「鰊御殿」という名の旅館がある。明治初期に当時の最高級の商家として4年の歳月をかけて建築したもので、釘は1本も使われていない。(*鰊御殿は現在見学のみで旅館営業はしていないようだ)
時間を潰している間、商店でジュースやお菓子を買った。店のおばちゃんがわたしをよそ者だとすぐにわかったようで、「どこから来たのかい? これからどこ行くんだ」と矢継ぎ早に訊かれた。
島牧と告げると、今度は「何しに行くんだい」と、返答に困る質問をしてくる。こちらの話も聞かずに、毎年芸能人がお忍びで食べに来るすし屋があるということで、具体的な名前が出てきた。場所を尋ねたが、夏季のみの営業だということだった。後に島牧でそれらしい店を探してみたが、該当するものが見つからなかった。ウニ丼を食べさせる店は何軒かあるが、漁師町にすし屋は意外と少ない。これは道内の浜(漁師町)に共通する傾向である。
寿都を出たバスは海岸線を淡々と進んでいく。そろそろ西日が傾き、秋の大きな太陽が次第に日本海へ降りて行く。約1時間の乗車で終点の栄浜に到着した。
上1992年当時の原歌バス停 下は2010年 北海道南西沖地震での津波対策か防波堤ができている
当時の乗り継ぎダイヤを振り返ってみよう。
札幌駅発10:55「高速いわない号」に乗車、岩内着13:23、14:15発寿都営業所行きに乗車15:25着、寿都16:40発栄浜行きに乗車17:35着。記憶に違いがなければこのダイヤで乗り継いだはずだ。
到着直後の栄浜バス停1992年撮影
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宿泊した温泉旅館 2010年撮影
今宵の宿は栄浜バス停のすぐ隣にあるK温泉旅館である。眼の前が海で、すでに太陽は沈んだが、空全体がオレンジ色に焼けていた。
栄浜は島牧村のどん詰まりのようで、この先には民家は見えず、険しい断崖が続いている。栄浜自体、小さな集落で商店も一軒あるだけであったと記憶している。
K温泉旅館は釣り宿であった。バス停に近いということで、ここを選んだが、当日の宿泊客はわたし一人のみ。若女将と大女将で切り盛りしていたが、漁師の民宿といった風情である。
若女将まだ20代前半、小樽から嫁いで来たという。小樽のような大きな町からここへ来て寂しくないのか質問をしてみた。
「わたし、小さい時から田舎が好きなんです。だからここが合っているみたいです。それとここの温泉がいいんですよ」と訛りのない飾らない口調で答えてきた。
「アトピーがあって、身体が弱かったのですが、ここのお風呂に入ったら全部治って、すごく健康になりました」。
若女将に薦められ、早速、入浴をしてみたが、硫黄臭があり、体中がピリピリする塩辛いお湯だ。旅行で少し日焼けをしていたので、かなり滲みて痛い。それでも、とても気に入ったお湯であった。
料理は素朴な海の幸。食堂のテレビを見ながら、サッポロビールの大瓶を注ぐ。至福な時間である。
翌朝は早朝から叩き起こされた。イカを売る軽トラックが「イカー、イカー!!」と連呼しながらゆっくり走っているのだ。6時頃であったが、浜の朝は早い。イカ売りの声で起されたのはこれが始めてであったが、その後、道内の漁師町に泊まると何度か同じような経験をした。
大女将はあまり喋らず、ぶっきらぼうな印象を受けたが、朝食の際、「秋鮭(アキアジ)、持ってけ」といきなり言われた。
こちらの意思を確認する前から新聞紙に鮭を包んでいる。わたしは家が遠いので、冷凍宅配便で送らないと無理だと告げたが、理解してもらえなかったのか、もう一匹持ってきて、今度は鮮魚用の発泡スチロールケースに入れている。
若女将に事情を説明すると、宅配便を扱っている店が栄浜周辺ではないということで、遡上したばかりの秋鮭は辞退させていただいた。18年前の話だが今ほど物流も発達していなかったのだ。
寿都へ戻るバスは8時前に出発をした。この栄浜のバス停から先はバスが走っていない。途中、茂津多岬を挟み、約10キロ瀬棚町(現・せたな町)の須築(すっき)まで路線バスは途絶える。ちょうどこのあたりは、後志支庁と檜山支庁の境であるのだ。
やはり、秘境という言葉が似合う。
帰路は寿都から黒松内経由で長万部行きのバスに乗車。11時頃には長万部駅に到着をした。長万部に降りると都会にかんじた。初めて北海道旅行をした際、長万部で途中下車をして、喫茶店を探したが、見つからず、カルチャーショックを受けた記憶があるが、人間の感性などいいかげんなものである。
18年が経過。2010年7月、栄浜行きに再乗車をした。今回はレンタカーを利用しており、別の所に泊まる用事があるので島牧は立ち寄りなのだ。
最初の予定では黒松内か長万部から寿都行きに乗車し、乗り換えようと計画していたが(つまり1992年の帰路コースの逆を行く)、接続が恐ろしく悪い。参考までにダイヤを紹介しよう。
長万部発950 1550
黒松内発10171617
寿都着1052 1652
寿都発1325 1705
栄浜着1419 1759
栄浜発1430 1815
寿都着1524 1905
このほか、黒松内発14時10分発のバスもあるが寿都で2時間半以上の待ち時間がある。長万部9時50分に乗れば、栄浜往復ができるが、札幌から車で向かうので朝がえらく早い。次の15時50分では遅すぎる。そこで、考えたのがレンタカーを寿都に置き、栄浜との路線バスで往復をすることに決めた。
札幌を9時頃出発、寿都の食堂で昼食を取り、車はそこに置かせていただいき、13時25分発の栄浜行きに乗車をした。
18年前と同じルートを辿る。風景は変わっていないようでも、道路の拡張や新しいトンネルが掘られて道がよくなっている。寿都・弁慶岬の近くにある風車も18年前にはなかったと記憶している。防波堤や港の整備が進んでいるが、この付近は北海道南西沖地震で大きな津波被害があった場所だ。
村の中心には道の駅「よってけ島牧」が見える。数年前に車で立ち寄ったことがあるが、海鮮バーベキューが食べられる珍しい道の駅だった。追分ソーランラインがこの間、何度か走っているのだが、路線バスから見ると、見え方が違ってくるから面白い。座席の高さ、速度、そして運転をしていないので、自由に外を見ることができる。
栄浜行きのバスは大きな集落がある原歌で全員下車をした。途中、「小田西川」という気になるバス停名があった。道内の路線バスでは「鈴木宅」など個人名のバス停をよく見かけるが、2名分と思われる名前が入っているバス停は初めてだ。
14時19分、定刻より少し早く、バスは栄浜に到着をした。運転手に折り返しにまた乗りますと告げ、短い散策に出た。
K温泉旅館は18年前とほぼ同じ姿であった。挨拶したい気持ちもあったが、時間もなく、相手もわたしのことなど覚えていないであろう。あの温泉にはもう一度、入ってみたい気がするが。
実はこのK温泉旅館は少し手前にあるモッタ浜温泉旅館からお湯を引いていることを後から知った。モッタ温泉は最近になって、ヨード分が豊富で、ラジウム含有量では鳥取県の三朝温泉を凌ぎ、日本一ではないかといわれている名湯なのだ。三朝は無色無臭だが、こちらは硫黄臭があり、やや濁りがある。
折角、栄浜まで来て、ひと風呂浴びて、帰りたいが、折り返しのバスは10分少しで発車してしまう。
車両点検をしていた運転手に「栄浜まで乗る人はいますか」と訊ねてみた。
「休みの日とか温泉入りに、遠くから来る人が乗るみたいだよ」という答え。さらに「お客さんは帰っちゃうのかい」と訊かれた。「寿都にクルマが置いてあるから戻らないと。このバスに乗りたくて来ました」と告げると理解不能そうな顔をされた。余計なことを言ってしまった。
車内に戻ってから詳しく事情を話したが、もの好きと思われたであろう。
14時30分、ふたたびバスは寿都へ戻って行った。
島牧村の人口は現在、2千人を切っている。栄浜まで向かうバスが何時まで走り続けることができるのか気になるところだ。18年前は海岸沿いの道を頬被りした老婆が歩く姿を何人か見かけたが、今回はお目にかかれなかった。
このまま住民が減り続ければ、「秘境」の存在自体、危うくなってしまう。道の駅の名前ではないが、「よってけ島牧」と言いたい。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 寿都-島牧・栄浜(ニセコバス)前編
今は取り壊された寿都劇場と島牧・原歌バス停(島牧へ行くバスの半分は原歌止まり)写真は1992年のもの
1992年の秋以来、18年ぶりに寿都ターミナルから島牧・栄浜行き路線バスに乗車した。寿都の町はだいぶ整備されていた。小さな町を歩くと、かつて「寿都劇場」という古い劇場があったがすでに取り壊されているようであった。
寿都ターミナルから乗客7人を乗せて、定刻13時25分にニセコバスは出発した。方向幕には行き先が出ておらず、真っ白けの状態。フロントガラスの下に小さく「栄浜行き」と書かれたボードが置かれていたが、知らない人はわからないであろう。推測だが、親会社の北海道中央バスのお下がりバスで、そのまま直さずに使っているのではないか。
バスはすぐに海岸線に出た。天気に恵まれれば紺碧の日本海が素晴らしいが、この日は小雨で風も強い。弁慶岬の近くにある風車も勢いよくまわっている。この日本海沿いには風車が多いが、景観的に楽しませてくれて、野外美術館のオブジェのようだ。
バスは何もない海岸線を走り、約30分走ると島牧村へ入ってゆく。病院と買い物帰りと思しき人が下車してゆく。路線バスで訪れる18年ぶりの島牧。相変わらず人を見かけない。海岸線にへばりつくように民家が並んでいるが、皆、どこにいるのであろうか。ひっそり静まりかえっている島牧村である。
北海道でいちばん「秘境」という言葉が似合う市町村はどこであろうか?
「秘湯」という言葉もそうであるが、「秘」と付く限り、隠れた魅力がなくてはならない。何もない山奥では「秘境」と云わず、単なる田舎だ。素材が豊かで観光的な魅力もある-且つ、荒らされておらず、あまり知られていない。知る人ぞ知るといったような場所が「秘境」の重要なファクターと考える。
さらにアクセスの悪さというのも重要だ。簡単には辿り着けない場所でなくてはならない。都市部から時間がかかる。公共交通が不便。道路もよくなく、途中で途切れる。危険な場所でもある。そのあたりも「秘境」の条件ではないか。これらの要素に当てはまりそうな場所-それが島牧村である。
島牧村が秘境たる所以は、海岸をクルマで通過すれば一見何もないように見えるが、知れば知るほど、奥に行けばいくほど何でもあり、素材の宝庫とでもいえる奥深さが「秘境」という言葉にピッタリだと思ったからだ。
たとえば、国道229号線(通称・追分ソーランライン)沿いにある道の駅「よってけ島牧」から林道を十数キロ入り、さらに20分ほど歩くと道内最大の滝つぼ「賀老の滝」がある。ここは高さ70メートル、幅40メートルもあり、真下まで行くことができるので、迫力はなかなかのものだ。
さらに山を奥へ進めば狩場山があり、ここは8月上旬まで残雪があるお花畑が有名だ。
大雪山系も顔負けの大自然があるが、狩場山までの往復には7時間はかかる。この他、沢をよじ登り、道なき道を行く幻の沼「スナフジ沼」や謎の鍾乳洞、そして泉質が異なる鄙びた温泉宿が点在している。
野営の露天風呂もいくつかあるが、悪路で道が途絶える、徒歩限定、さらにヒグマが多い地域なので簡単に人を寄せ付けない。そこが島牧を秘境といった所以である。人口2千人弱の小村に、秘境エッセンスが詰まっているといえる。
また、交通の便が恐ろしく悪い。勿論、鉄道は昔から通っていない。札幌から行く場合、都市間高速バスで岩内ターミナル行きに乗車、岩内で寿都行きの路線バスに乗り換える。さらにそこから栄浜行きのバスに乗車。つまり3本のバスに乗る。乗り換え時間を含めなくても、乗車時間は約5時間近くかかり、丸一日の旅である。
島牧へ行くもうひとつのルートは、JR函館本線の黒松内から入るコースだ。黒松内駅(または長万部駅)から寿都行きの路線バスに乗車、寿都からは前述の栄浜行きに乗り換える。こちらは本数が一日に3,4本。それに黒松内まで行くのが大変である。札幌からJRで行く場合、一日2本の「ニセコライナー」に乗車すると黒松内までの所要時間は3時間半以上。当日中に島牧に着けるかどうかも怪しくなってくる。
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函館本線黒松内駅 ここから寿都へ向かうバスは一日5本 無人化され閑散とした駅舎内
この黒松内から寿都まではかつて鉄道が走っていた。寿都鉄道という。昔から人口が少ないこの地域に私鉄が走っていたこと自体が信じられないが、この鉄道の興味深いところは寿都で採れたニシンや鉱石などを運ぶ目的で作られたことだ。
北海道の私鉄の多くは炭鉱鉄道や殖民鉄道であり、ニシン長者が寿都の特産品を輸送するために線路を敷いたこの鉄道は異例ともいえる。北海道の近代史(産業交通史)の上でも興味深い鉄道である。
鉄道が開業をした1920年はニシン漁が真っ盛りの頃、寿都鉄道はさらに岩内まで路線を延ばす計画があったという。
1968年、大雨による河川増水で路盤が流出し、そのまま廃止に追い込まれているが、廃止間際まで開拓時代を思わせる米国ボールドウィン社のSLが明治30年代の客車を牽引して走っていた。当時でも車歴60年から70年の車両が走っていたのだから、さぞや走る鉄道博物館であったであろう。
この寿都鉄道、車両などは保存されていないが、橋脚や線路瘢痕と思しき場所はかなり残っているので、そちらの趣味がある方は是非、訪ねていただきたい。
1992年秋、札幌-小樽-寿都-栄浜間をJRと路線バス2本を乗り継ぎ、終点の栄浜まで行き、宿泊をした。丸一日かけてバスを乗り継いだ思い出深い旅であった。今回、路線バスで18年ぶりに栄浜を訪ねたが、当時の旅をふりかってみたい。
札幌から岩内までは北海道中央バスの高速都市間バスが頻繁に走っている。2010年現在一日16往復ある。人口1万5千人たらずの町にこれほどバスが走っているのが不思議であるが、途中、小樽駅や余市駅を経由して行く。途中下車客が多いようで岩内までは大変便利である。
国鉄岩内線(小沢-岩内間 昭和60年廃止)の跡地が大きなターミナルになっている。岩内は昭和29年の洞爺丸台風の際に発生した岩内大火により、町の大半が焼失。そのせいか町全体が毅然と整備されている。
また、すし屋が多いことで有名だ。数年前にバスターミナル傍のすし屋に訪れたが、ネタは上々。しかし、ワサビの量が半端ではなく、涙が止まらなくなった。ビールで流し込んだが、意地悪でもされたのであろうか。
岩内には、有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」のモデルとなった画家・木田銀次郎の美術館がある。私はその存在を知らなかったが、彼の美術館がバスターミナル近くにある。有島と木田との出会いとその後はふたりの作品を知らなくても引き寄せられる話なので訪ねる価値がある。
2本目のバス、寿都行きは岩内から*ニセコバスに乗り換える(*1992年当時は中央バスが運行)。ニセコバスは中央バスの子会社だがニセコ地区以外にも島牧・黒松内・長万部方面まで路線を伸ばしている。(*2008年まで小樽駅から寿都までの直通バスがあったが、現在は廃止されており、乗り換えの手間が増えるようになっている)。
岩内を出たバスは街中を抜け、あまり広くない海岸線の道路を進んでいく。暫く走り、トンネルとトンネルの間に*雷電温泉入口バス停がある。高台にある温泉ホテルでは旅芝居の長期公演が行われているたしく、バス停には看板が掲げられていた。岩内からもだいぶ離れた何もない温泉地で1ヶ月以上も公演するのはどんな気分なのであろうか。
当時、梅沢劇団が脚光を浴びていた時期だが、座長芝居は1~2ヶ月ごとに道内温泉地の場所を変えて、巡業をしてゆく。巡業地の多くが規模が大きな温泉地であったが、なぜか秘湯の趣さえある雷電温泉に小屋がかかっていた。(*雷電温泉はその後、閉館が相次ぎ現在は一軒のみ営業。勿論、旅芝居も見れなくなった)
また、電気も通っていない秘湯、朝日温泉も近くにあり、「朝日温泉入口」バス停から登ってゆく。
バスは寿都へ向かってゆく。
後編へつづく
北海道ローカル路線バスと秘境旅 小樽-おたもい(北海道中央バス) 『石狩挽歌の町を行く2 後編』
2010年06月27日掲 載
タクシー運転手の興味深い話を聞いて以来、オタモイの歴史に俄然興味が湧いて来た。
オタモイを訪問をした1995年はパソコンソフトのウインドウズ95が登場した年である。インターネット元年と云っていいような年であり、瞬く間に多くのホームページの開設がつづいた。小樽関係のサイトも増えたが、オタモイの歴史も検索をしても、なかなか情報には辿り着けず、結局、小樽市の博物館にも行って調べてみたりした。
オタモイ遊園地をつくったのは網元など漁業関係者ではなく、意外にも小樽在住の寿司店主であった。
加藤秋太郎と云い、花園町で「蛇の目寿司」を開業、それが当たり、中華やフランス料理まで出す大繁盛店へ。加藤は観光施設がない小樽にレジャースポットが必要と考えて、とてつもない事業に乗り出した。費用はすべて自腹であり、足りない分は無尽でまかなったらしい。
昭和7年、まずオタモイの海岸に「白蛇弁天堂」を建立。その後、10万坪の土地を用意し、「弁天閣」という食堂を設ける。さらに切り立った崖地にトンネルを掘り、楼閣・「龍宮閣」建設が始まる。海上からはしけで資材を搬入、『懸け造り』とも『崖造り』とも呼ばれる建築方法を取ったが大難航をしたという。そして3年がかり、昭和10年にオタモイ遊園はオープンをする。
写真で見ると、京都・清水寺が海の上にそそり立っているかんじだ。これほど浮世離れをして、且つスケールが大きいものは見たことがない。明治の男はやることが違う。
オタモイ遊園地は道内屈指のレジャー施設として賑わったが、戦争が始まり閉鎖。終戦後、人手に渡っていたが、昭和27年、「龍宮閣」は再開を眼の前に火事に遭ってしまう。海からの強風で建物はメラメラと燃え上がり、消防車が入れるような場所ではないのでみるみるうちに燃え尽きてしまったという。
タクシーの運転手が子供の時に見たという「龍宮閣」は焼ける前の営業休止中の時のものだったようだ。戦時中から10年近くは放置されていたのだ。
「石狩挽歌」に出てくる歌詞、「今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」の部分だが作詞のなかにし礼氏は子供時代、小樽で過していたことを著書「兄弟」などに残している。1938年生まれのなかにし氏は8才で満州から小樽に引き上げてきているので、廃墟状態であったオタモイ遊園をナマで見ていてもおかしくはない。その朽ち果てた建物を「ニシン御殿」とし脚色を入れ、詞にしたのではないかと想像する。
なお、オタモイ遊園が出来た1930年代は、北海道もレジャーブームであったようで石狩浜にも大プール、浴場、和洋室、レストランなど兼ね備えた今でいうリゾートホテル「石狩海濱ホテル」が造られている(ちょうど「石狩番屋の湯」があるあたり)。砂丘上に建てられたが、まさに砂上の楼閣であり、オタモイ遊園と共通するファクターは多い。
2010年5月、石狩を訪ねた翌日、路線バスでオタモイを訪ねてみることにした。
前日、18年ぶりに石狩を路線バスで訪ねているがオタモイはこれまで、タクシーとレンタカー利用であったので路線バスは初めてだ。
事前にバスダイヤを調べておいたが、一時間に数本はある密度が高そうな路線である。「おたもい入口」行きか「塩谷海岸」行きのバスに乗車する。どちらも旅情を駆り立ててくれそうな終着名である。
しかし、遊園地があったオタモイ海岸へは手前の「オタモイ団地」で下車をする。また、所要時間も20分弱、これでは「秘境バス」ではなく、嘘つきの卑怯バスになってしまうが仕方ない。
石狩行きと同じ北海道中央バスに乗車。中央バスの本社は札幌ではなく、小樽にある。道央圏に広大な路線を持つ北海道で最大、全国的にも10本の指に入る会社だが、未だに小樽にこだわっているのか札幌へ本社を移設していない。ここの本社建物も小樽を代表する建造物である。
バスは駅前国道5号線沿いから発車するがここが始発ではないようだ。「おたもい入口」行きとあるが駅前からもけっこうな人が乗車する。
国道を余市方面へ向かうが、途中観光スポットのような場所も通らずやや味気ない。長橋中学校の先を右折すると住宅地に入り、道もクネクネしている。これまでもクルマでも通ったことがあるところだ。目的地の「オタモイ団地入口」には呆気なく着いた。老人が数人降りる。
オタモイ海岸入口の標識を見て、酒屋の角を右折。目の前には数えきれないほどの同じ形をした小さな家が並んでいる。斜面にへばりつく様に、緑色をした屋根の家が連なる姿は炭住(炭鉱住宅)のようである。
5年前にクルマでここは通っていたので覚えていたが、近づいてみると誰も住んでいないのだ。ここが「おたもい団地」か。前回来た時は団地の前に商店もあった気がしたが既に閉まっていた。
団地の前の坂を上る。急ではないがかなり距離がある。やがて、民家が途絶えて登りきると今度は海岸へ降りる下りだ。ヘアピンカーブをいくつか曲がると海岸が見えてきた。バス停から海岸までは20分ぐらいであろうか。
早速、崖伝いに「龍宮閣」の跡地まで歩いてみようと思ったが、何と立ち入り禁止の看板がある。それでも、カップルが歩いて行った。ちょうど草刈をしているおじさんがいたので尋ねてみた。
すると「人が住んでんだから大丈夫なんだろうけどね」。
人が住んでいるとは、「オタモイ延命地蔵尊」というものがあり、そこにはジュースの販売機や土産などを売っている場所である。5年前に訪れた時は管理人のような方が焚き火をしていたので、人が住んでいるとはここのことを言っているのであろう。
ちょうど草刈をしている場所は、「龍宮閣」へ向かう階段がある場所だった。これまで気付かなかったが、多分草で覆われていたからであろう。遺跡のように顔を出していた。
今回はここで引き上げることにした。
戻ってくる途中、おたもいだ団地の上から下を見下ろすと正面にに立派なマンション風の建物が見えた。どうも炭住風の「おたもい団地」の住宅は近代的なサーモン色をした100戸以上ある住宅に移ったようだった。
オタモイ遊園地の痕を見にきたつもりでいたが主のいない桜が満開の市営住宅跡地の方が最後に印象が強烈であった。
この人気のない団地にも「石狩挽歌」のフレーズが似合いそうだと思い、ふたたび小樽行きのバスに乗った。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 小樽-おたもい(北海道中央バス) 『石狩挽歌の町を行く2 前編』
2010年06月26日掲 載
北海道を代表する観光地・小樽。小樽運河や北のウオール街と呼ばれた歴史的建造物は北海道の中心として、かつては栄えていたことを示す名残である。北海道最初の鉄道や洋式ホテルなど札幌に先立って造られており、昭和初期までは黄金時代であった。
同じ頃、海の方では鰊(にしん)が大豊漁。道南江差から積丹、石狩方面にかけての日本海沿岸は千石場所として賑わい、多くの鰊御殿が建てられた。当時の小樽は北海道経済の中心都市であり、また水産業でも賑わいを見せた我が世の春の時代であった。
小樽は当時の遺産が重要な観光資源となっている。鰊漁が盛んであった時代の遺産としては、祝津の鰊御殿、青山別邸や平磯岬にある銀鱗荘などがあるが、鰊御殿は積丹・泊村からの移築、高級旅館として名高い銀鱗荘も余市から運んできたものである。
前回の「石狩挽歌を行く 石狩編」で紹介をした石狩本町は、かなりよい寂れ具合をしていたが、今回は大観光地・小樽の紹介。前回以上に「秘境バス」などあるのかと言った声が聞こえてきそうで頭が痛い。先に結論から言うと、今回舞台となる「オタモイ」は『おたもい行』の路線バスはあるが、目的地へはさらに20分以上歩かなければならない。戦前まではオタモイ海岸まで路線バスが通じていたらしいが、大昔に廃止になっているようだ。
1995年、私は北海道旅行の最終日・小樽を訪れた。
小樽港から新潟へ向かう夜発のフェリーに乗船するためだが先に荷物をフェリーターミナルのロッカーに預けて、小樽築港から運河周辺を散策しようと思った。
小樽駅からタクシーを拾い、「新日本海フェリーの乗り場」と告げると、運転手は「出航までまだ時間あるでしょ。少し観光しない。運河でも見るかい?」と言ってきた。
私は警戒をした。一見の観光客と見られているのではないかと。
ここは虚勢を張って、「小樽は何度も来ているからいいよ。運河なんか面白くないでしょう?」と返した。
すると、「まあ、昔の運河と違うからね。じゃあ、多分お客さんが知らない所、連れて行くよ。私は写真が好きで、撮ったやつ絵葉書にしてお客さんにあげているんだよ。これっ、どこだかわかる?」後ろ向きにポストカードを差し出した。
なかなか手強そうなドライバーだ。
写真を見ると、尖がった岩や断崖、それに夕陽なので「積丹と忍路海岸あたりかな・・・」と私は呟いた。
「一枚は積丹のローソク岩だから当たり。そっちは忍路じゃなくてオタモイ海岸。ここも夕陽がいいよ」やられた。オタモイか。名前はよく知っていたが行ったことはなかった。
3年前、好きな北原ミレイの「石狩挽歌」を追って、石狩浜へ入ったが、曲の中で「オタモイ」は出てくる。2番の歌詞に登場するが、朝里までは行き、実はオタモイを探しに行ったのだが、当時はカーナビもなく入り方がわからず、塩谷や忍路あたりと勘違いをしてグルグル周って引き返してきたのだ。
運転手はぼったくりそうなタイプではなく、なかなか熱心なお人のようである。ちょうど日没近い時間、旅の終わりの記念として「オタモイへお願いします」と告げた。
「じゃあ、オタモイで夕陽、それから旭展望台を案内してあげるよ。行ったことある?ここの夜景は小樽イチ。そこからフェリー乗り場まですぐだから」。運転手は乗ってきた。当時、旭展望台も知らなかったので、私も知ったかぶりをしたかもしれない。
「料金はいくら?」。旅で相当使ったので、懐具合は豊かではない。
「いくらでいいかい。メーターは途中で止めるから。サービスして7千円でいいよ」と告げてきた。
高い。本来は1時間で7千円は安いのかもしれないが、これまで道内で観光タクシーを利用する時はすべて直交渉。以前、紋別では廃線めぐりで50キロ以上2時間走って5千円。釧路湿原へ行った時も細岡展望台往復に市内観光をして100キロ以上走り1万2千円でやってもらった。
「4千円でどう」。
「4千円はきついねぇ」。
「じゃあ、最初に祝津の灯台へ行って5千円で」とダメもとで振ってみると
「それでいいよ」。話はすんなりまとまった。
タクシーは運河沿いから高島漁港を過ぎ、観光スポットでもある祝津へ。
そろそろ暮れかけたきた祝津岬は小樽一のビューポイントだ。眼下には日和山灯台や鰊御殿、水族館が見える。ここから見る石狩湾は季節ごとに色を変えてくれる。タクシーは回転レストランがあるホテルの前を通り、山道へ。さらに大きな墓地を通り、ふたたび住宅街へ。途中を曲がり、細い路を数分走るとオタモイの海岸に着いた。
クルマを降りると、運転手は積丹方面を指差した。岩陰に太陽が反射している。そろそろ断崖と海の間に太陽が落ちる頃であった。
「子供の頃、あの崖の上に龍宮閣っていうのがあって親の時代は賑わってね。火事で焼けちゃったんだよ」。
これが、石狩挽歌に出てくる鰊御殿か。
しかし、断崖絶壁の地に御殿があったなど、地形を見ると俄かに信じられない。
「あんな絶壁に鰊御殿があったんですか?」
「いや、今でいう健康ランドっていうか、遊園地があって子供時分は遊び場になっていたの」
オタモイ岬の鰊御殿は、「御殿」ではなく遊園地?
石狩挽歌の歌詞ではこうなっている。
燃えろ篝火(かがりび) 朝里(あさり)の浜に
海は銀色 ニシンの色よ
ソーラン節に 頬そめながら
わたしゃ大漁の 網を曳(ひ)く
あれからニシンは
どこへ行ったやら
オタモイ岬の ニシン御殿も
今じゃさびれて オンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で
娘ざかりの 夢を見る
この「今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」の部分が重要のようである。
その日は旭展望台で宝石箱のような夜景を見て、新潟行きフェリーの人となった。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 札幌-石狩(北海道中央バス) 『石狩挽歌の町を行く 後編』
2010年06月13日掲 載
市街地を抜け、潮騒をかんじるようになってくると白い木造建物の「石狩画廊」があった。砂丘地のような場所にポツンと建っている。画廊と云うよりは、洒落たアトリエの外観だ。
中へ入るといきなり、体格のよい海水パンツに上半身裸の男性が現れた。ここの主である渋井一夫氏である。
まず、入館料を払わされた。金額は覚えていないが、3百円ぐらいだったのではないか。同時にコーヒーが出されたがちょうどコーヒー代ということかもしれない。
5月も終わりというのに肌寒く、ストーブが焚かれている。渋井氏はちょうど創作中であったようだが、いきなり絵の説明を始めた。石狩浜の風景やフランスの街並、その中に東郷青児の作品に出てきそうな女性も描かれ、キャンパスには渋井氏の詩が直に書かれている。
誰もいない砂丘にあるアトリエで、初対面の画伯とはふたりだけ、時間を長くかんじた。
私が作品を眺めていると、「君みたいな人がよく来るんだよ」と話しかけてきた。「君みたいな人」とはどういう人であろうか。勝手に決めないでほしい。
私はじっと作品を見ていたので(本当は居場所がなかった)、購入するとでも思ったのであろうか。
「帰ります」と告げると「帰っちゃうの」と言われで残念そうな顔で、送り出された。
意外に人なつっこい方であったかもしれない。
この渋井一夫氏は30代で銀行を退職し、昭和37年からこの石狩浜に居を構え、1年中、裸で創作している画家であった。誰もいない砂浜の傍で、ひとり暮らしているので、孤高の人かと思ったが、けっこう人間臭い印象を受けた。
画廊を出ると、石狩浜の灯台に向かって歩くことにした。風が強い。誰もいない。石狩浜(日本海)は波立っている。「石狩挽歌」のメロディが駆け巡る。
灯台は道のどん詰まりにあった。もう少し経てば周囲はハマナスの花で覆われるらしいがまだその気配はない。それでも紫色をした花が砂から顔を出していた。
ここ石狩灯台は木下恵介監督の名作・「喜びも悲しみも幾く年月」のロケ地になっている。燈台守の家族の一生を描いた映画で、テレビで見たことがある。パンフレットを読み、灯台を眺めていると、今度は「石狩挽歌」に変わって、映画と同タイトルの曲が浮かんできた。
♪おいら岬の 灯台守は~ 妻とふたりぃでぇ♪
当時、懐メロ番組によく出演していた若山彰の代表歌である。威勢がいいイントロから始まるが、次第に哀調を帯びたメロディに変わってゆく昭和の名曲中の名曲である。
石狩灯台周辺は散策路になっており、海が目の前の河口口まで歩けたが、石狩川の築堤の上を歩きながら石狩のバス停に戻ることにした。バス停までは民家はない。朽ち果てた漁船やバスが放置されている。戻るとバスが早々と折り返し場で待機していた。出発まで時間があったが身体が冷えてしまい、温かい缶コーヒーを販売機で買い、バスに乗せてもらった。
帰りの札幌行きのバスも始発の「石狩」から乗る人はいなかった。
それから石狩浜へはクルマで何度か訪れた。
ハマナスの咲く時期もいいが、丸い実をつける9月もよい。そして、何よりも静寂に包まれた真冬がよかった。12月、年賀状用に、真冬の灯台の写真を撮りたく、東京からわざわざ出かけたことがある。道路が悪く、途中でレンタカーを置き、1992年と同じ道を歩いて灯台まで行った。寒いが、ひと一人いない中、歩く開放感がたまらなかった。
その後、石狩は随分と変貌を遂げた。
1996年には公共温泉の「番屋の湯」が開業。灯台周辺もビジターセンターとはまなすの丘公園として整備されている。明治13年創業の「金大亭」は現在も営業を続けている。ここは創業130年の歴史がある石狩鍋発祥の店であり、建物や店内にある資料など文化財級のものだ。大昔は石狩に多くの芸者も居たらしく、まさに「石狩挽歌」の場所だ。
私が最初に訪問したのは1997年であったが、コースの予約のみの受付でフリーだと料理が用意できないということで断るそうだが石狩鍋だけであれば出せるというので頂戴をした。老舗の名店にも関わらず、料金は庶民的、女将さんも素朴で、親切な方であった。ひとりで賄っているので予約のみらしい。
そして、石狩画廊はすでにない。渋井画伯は平成8年1月に亡くなられた。画廊内で倒れているところを朝発見されたらしい。
2010年5月、「石狩」行き路線バス乗車から18年が経過したが、ふたたび同じバスで石狩浜を訪れてみることにした。
前回と同じく、そこそこ乗っていた乗客も最後はひとりになってしまった。石狩の町は整備され、本町自体だいぶ観光化されたが、終点の「石狩」バス停はそのままだった。
石造りのシェルターのような待合所、裏手の石造りの倉庫も変わっていない。時が止まっていた。「金大亭」の看板も錆付いて、そのままあった。
すっかり整備された灯台の前にある観光センターへ足を運んでみた。ちょうどこの日は18年前と同じようなどんよりした薄ら寒い、風が強い日だった。2階の展望台へ昇ると、石狩画廊の渋井一夫展をやっていた。あの時以来の再会である。じっくり絵を眺めてみた。殆ど作品は記憶に残っていなかったが、イメージは強烈に焼き付いている。
何でこの場所で、絵を描き続けたのであろうか。
「君みたい人が来る」。渋井画伯の言葉を思い出した。主はいなくなったがまた来てしまった。どういう人が君みたいな人なのか聞いてみたかった。
バス停へ戻った。思っていたほど石狩は変わっていなかった。ここは観光地かもしれないが、路線バスで降り、歩いてみれば何も変わっていない。クルマで来る時と印象は随分違うものだ。これが路線バスの面白いところであろうか。
石狩は札幌から距離が近い割にはアクセスが悪い。石狩に秘境感が残っているのは鉄道が通っていないことも関係しているかもしれない。昭和30年代までは悪路のため、馬そりが専用バスを轢いて走っていたらしいが以前からモノレール建設の話があっても実現には至っていない。
鉄道が昔からなく、バスのみというのが石狩の秘境感を醸成しているのかもしれない。
また、石狩河口橋が出来るまでは、231号線が石狩川で中断され、石狩より先、厚田・浜益方面へはフェリーに乗らなくてはならず、手前の石狩がどん詰まりのようになっていた。そういった地勢や交通の特殊性も影響していたかもしれない。
札幌中央バスターミナル発石狩行き、ここへ行け当分は「石狩挽歌」をリアルに感じることができそうだ。
北海道ローカル路線バスと秘境旅 札幌-石狩(北海道中央バス) 『石狩挽歌の町を行く 前編』
2010年06月12日掲 載
『北海道ローカル路線バスと秘境旅』、前回のてんてつバス(留萌-達布)につづく第二弾です。
石狩といえば札幌の隣に位置するベッドタウンだ。石狩町から石狩市へ昇格、最近では厚田村、浜益村を吸収し人口6万人を数えている。周辺は石狩湾新港や工業団地など近代的なイメージが強い。ここをローカル路線バスで行く秘境と書くと文句が聞こえてきそうである。
しかし、海水浴シーズンやハマナスが咲く頃などわずかなシーズンを除けば忘れられたかのように静かな街だ。公共温泉ブームに乗って大人気になった「番屋の湯」も近くにあるが、ここから僅か数百メートル中央バスの終点・石狩停留所で下車し、石狩浜へ向かって歩いてみると別の世界が開けてくる。石狩市・石狩本町が今回の目的地だ。
初めて石狩を訪れたのは1992年の5月下旬。曇り空で、肌寒い日だった。石狩へ行くバスは札幌駅ではなく、大通公園に近い中央バスターミナルから発車する。近代的な駅ビルESTAにあるターミナルではなく、長距離バスや石狩よりさらに先の雄冬方面へ行くバスが出発する中央バスターミナルは、どこか長閑で、ローカル感のあるバス乗り場だ。大きな荷物を持った浜焼けしたお婆さんなどがベンチに腰掛けて、お菓子を頬張っていた姿を覚えている。(注:中央バスターミナルは現在でも当時と雰囲気は殆ど変わっていない)。
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石狩行バスが出発する札幌・中央バスターミナル(2008年撮影)
石狩行きのバスは一日20本以上あり、日中でも1時間に1本はあるので、「秘境バス」とはいえないが多くのバスの目的地が都市部のターミナルなのに対し、こちらは全く違った光景へ運んでくれる。
赤と白に塗られたバスは札幌市内中心部を抜けて、国道231号線、通称・石狩街道を北へ進んでいく。三車線の快適な道だが、住所が札幌市から石狩町(現・石狩市)に変わるあたりから蛇行する石狩川の支流が現われてくる。次第に民家が見えなくなり、その代わりに、水産工場や大型トラックの出入りが増え、荒涼感が漂ってくる。
ちょうど景色が変わる辺りに、旧たくぎんの負の遺産である巨大温泉リゾート・テルメ(現・シャトレーゼ・ガドーキングナム・サッポロ)が右手に見えてくる。札幌市内には北のはずれ(北区東茨戸)にテルメがあり、南のはずれ(南区川沿)にはグリーンホテル(現アパホテルリゾート)があるが、土地の広い札幌市内なのでこれだけ大きなホテルが作れるのであろう。
途中、花畔(ばんなぐろ)という難読地名のバス停がある。初めてその地名を車内放送で聞き、停留所に書かれた文字と照らし合わせたが、絶対に合致しない名前であった。この先、厚田まで乗ると濃昼(ごきびる)というバス停があるが、はじめて耳にした時、「まさか」と思ったものだ。「ゴキブリ」と聴こえたからだ。
この花畔周辺に石狩市の中枢機能が集まっているが、もとは花川村と云って、これから訪ねる石狩本町とは別の町であったらしい。
石狩行きのバスはトラックがビュンビュン走る広い道を留萌方面へ進むと「3線」というバス停の先を左折する。道内の路線バスに乗っていると1線、2線、3線・・・・といった停留所名をよく聞く。だいたいが、民家が途絶え、何もないところに付けられており、「番外地」と共通するような響きである。個人宅名のバス停留所も各地にあるが、さすがに札幌周辺ではあまり聞いたことがない。
国道を左折したバスは道は急に狭くなった1車線の道を淡々と進んでいくが、暫らくすると、ぽつんぽつんと民家が増えてくる。石狩小学校を過ぎたあたりから商店と共に古い石造りの建物や廃屋などが目に飛び込むようになってくる。
ふたたび民家の数が減り、道が途絶えたところが、終点の「石狩」である。正式にはこのあたりを石狩本町と云う。札幌ターミナルからは約1時間弱で終点の短い旅だが、他の乗客は途中で降り、終点までの乗車は私一人だった。
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石狩線の終点「石狩」のバス停と石狩本町に残る石造りの建物(’92.5&’10.5撮影)
石狩へ来た目的は、ここがかつて鰊(にしん)や鮭漁で賑わった町であったことを何かで読んで知り、その名残が今でも多く残っているということを聞いたからだ。中心の石狩本町はニシン・サケなどの千石場所として日本海岸第一という繁栄をみせたところらしいが、大手出版社が出しているガイドブックには殆ど紹介されておらず、バッカパッカー向けのユースホステル発行のガイドブックなどに書かれている程度だ。そこで情報収集のため、事前に役場へ連絡をして、パンフレットを送ってもらっていた。
当時はネットもない時代なので、旅行ガイドに載っていないような場所へ行く時は役場の観光課などに連絡をすると何種類もの立派なパンフレットが贈られてきたものだ。中には立派な広報や町勢などが入っていることもあったが、有名観光地ではない役場は概ね親切で、よほどの北海道通も知らないような穴場的スポットを教えてくれたものだ。
役場に直接来てくれと言われたことも何度かあり、実際に訪問をしたこともあるが、観光案内までしていただいたこともある。北海道人の暖かいおもてなしに感激をしたもので、私の北海道贔屓の原点となっている。
「石狩」のバス停を降りると風が強い。そして寒い。それもそのはずでバス停の前は石狩川の築防になっている。反対側は石狩浜なので風が舞うようにビュービューと来る。
海までは1キロはない。ちょうどここは石狩川の河口に位置し、半島のような地形のどん詰まりに位置しているのだ。
土手を登ってみると波を打った石狩川が見える。石狩川が蛇行しながら日本海へ注ぐところに発達したのが石狩なのだ。
バス停前には『創業明治13年金太亭』と『石狩画廊』という看板があった。石狩画廊は町発行のパンフレットで前知識があり、最初はここを訪ねてみようと思っていた。『石狩』から北海道では珍しい木造の民家が多い住宅地へ入ると、看板があった「金太亭」という木造の古い立派な料亭のような店がある。この場所に料理屋があるというのも不思議にかんじたが、大変惹かれるものがあった。
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今は取り壊され自然に還っている「石狩画廊」(’92.5撮影)と130年の歴史「金太亭」
石狩を訪れた1992年当時、北原ミレイの「石狩挽歌」が静かなブームであった。私もこの曲を気に入っており、カラオケで何度か唄っていた。まさに、この歌の世界が石狩にはありそうだ。リアルな石狩挽歌の世界を探しにやって来たのも訪問の理由のひとつかもしれない。
後編へ続く
北海道ローカル路線バスで行く秘境旅 『てんてつバス 留萌-達布』(後編)
2010年05月16日掲 載
昨年12月に書いた「北海道ローカル路線バスで秘境旅 てんてつバス留萌-達布」の後編です。だいぶ時間が空いてしまいましたが、前編はこちらから。
てんてつバス乗車から10年が経過してしまった。その間、時間がないとか興味がなくなった訳でもないが1997年から1998年にかけては、ダム工事で大夕張の集落が水没してしまうと訊き、1年間に3回も美鉄バスが走る夕張などに撮影などに行ったいた。てんてつバスは当面は安泰そうであったので、優先順位が低くなってしまっていた。
だいぶ時間が経過した平成18年(2006年)秋、10年ぶりの達布行きを決行した。
問題はバスに乗ると現地での行動が制約されることである。下のバスダイヤを見ていただきたい。一日4往復だが、達布発の最終が何と13時40分なのだ。
ダイヤ:
留萌 達布 留萌
815 918 700 805
1210 1315 800 905
1550 1655 1000 1105
1830 1933 1340 1433
前回は留萌1210発に乗車、達布の滞在時間は僅か25分であった。留萌815の始発に乗ると10時発まで1時間45分の滞在が出来る。1340発なら6時間以上滞在が可能であるがこれは長すぎる。やはり始発しかないか。しかし、始発に乗るには留萌前泊になってしまう。達布宿泊という裏技もあるが、あの朽ち果てた紅屋旅館がやっているのか不明であるし、あの建物に泊まる自信はない。
また、選炭所などがあった施設は達布のバス停から更に1,2キロキロ先にあることがわかったため、現地では最低でも1時間半程度の滞在時間は欲しかった。
昭和40年代の北海道時刻表を見ると達布学校より更に奥、滝下10線、滝下15線、東和という10キロ奥までバスが入っていたことがわかった。もし、集落が残っているのであればそこにも行ってみたくなった。ちなみに昭和43年の交通公社時刻表で調べると今の倍の8往復のバスが走っている。
それもそのはずで、当時の人口は達布地区が1095人(S46年)いた人口が 平成20年には169人に、滝下地区では153人が13人に減少している。また、昭和35年、鉱業従事者が1150人いたが平成11年には11人に減少している。
ちょっと待て、天塩炭鉱は昭和41年に閉山したのではないか?その11人とは。このナゾはあとでわかる。
結局、てんてつバスに乗車しての達布行きは諦め、レンタカー利用という”裏切り行為”に出た。路線バスに敬意を表して、留萌までは札幌から雄冬経由のバスで行くことにした。910発「日本海るもい号」に乗車、1992年に札幌から雄冬行きの特急バスに乗車したことがあるが懐かしい路線である。1998年にも増毛から札幌まで乗車したことがあり、高速道路を走らない長閑なお気入りのバスルートである。
レンタカーは留萌駅の駅レンタカーで借りることにした。鉄道利用者や観光客も少ない留萌で駅レンを借りる人などいるのであろうか。電話予約のみであったが、駅には自動車はまだ到着していなかった。トヨタレンタと契約しているようだが、駅員さんが慌てて連絡をしていた。予約はちゃんと入っていたようだが、何かのミスがあったようだ。以前も道内のローカル駅の駅レンで予約が入っておらず閉口した思い出がある。
留萌からはすぐには達布に向かわずに留萌線の深川方面へ戻り、恵比島駅をスタートとした。この駅はかつて留萌鉄道という炭鉱鉄道の始発駅で、10年前には朝の連ドラ「すずらん」の舞台となり、明日萌という駅名で登場したことを覚えている方も多いであろう。
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旅のスタートは恵比島駅 朝ドラの「明日萌」駅として一躍観光地に
実はこの駅、20年ほど前から気になっていた。駅前は閑散としているが、駅前旅館痕らしき建物があり、駅前はひょっとして商店街ではなかったのかという面影があった。留萌鉄道の炭鉱跡にも興味があったので2度ほど立ち寄ったことがあったが、まさかこんな観光地になるとは驚きであった。確かに、当時から昭和初期のセットのような佇まいであった。
しかし、今はブームは去り、SLも走っていない。駅前の土産物兼観光案内所も開店休業であった。ふたたび、もとの恵比島に戻ろうとしている。
この恵比島を起点に達布へ向かう。
途中、幌新温泉という立派な公共の温泉宿を通り、暫く走るとダム湖が見えてくる。ダム湖に沿って走るがそのダムにはかつての炭鉱跡が沈んでいる。以前、炭鉱があった新雨竜や浅野には最盛期4千人以上の人口を数えたが今は誰もいない。ダムの水位が下がるとかつての建物が見え、また、無人の廃墟となっている炭住アパートや、学校、病院、全国的にも珍しい隧道マーケットなどが残っているらしいが今はどうなっているか知らない。もし、残っていてもとてもひとりでは入れるような場所ではない。
ダム湖の湖畔には当時の住居跡などを遺した記念碑があるが、それ以外瘢痕は見えてこない。ここは古河鉱業の炭鉱であったが、北海道とはあまり縁がなかった会社で、社風もあるのかあっという間に消えて行ってしまった炭鉱だ。
そこから何もない道を進むと達布キロ、小平キロの標識が見えてくる。そして、露天掘りの炭鉱が顔を出す。「吉住炭鉱」という看板がある。平成11年の炭鉱従事者11人とはこの炭鉱にはたらく人であろうと想像する。
今でも露天掘りを行なっている炭鉱(達布地区)
達布には恵比島から1時間もかからないで到着をした。
集落は10年前と比較をして、明らかに更地が増えており、何軒かあった商店も殆どなくなっていた。あの駅前旅館(紅屋旅館)も消えて、更地になっていたが食堂が一軒営業しているようだ。
先に天塩炭鉱へ向かってみた。
道路左手にホッパーがすぐに見えてきた。その脇の未舗装の路を入ると選炭場があったと思われる場所だ。コンクリートの瘢痕が二つ残っている以外は何もない。記念碑的なものを一切なく、静かに時が経過していた。天塩炭鉱の瘢痕はどうもここだけのようだ。
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天塩炭鉱ホッパー跡 数少ない遺構である
車をかつての、てんてつバスが足を伸ばしていた滝下地区へ向かわした。このあたり長閑な農業地帯。メロンを作っている。畑には無造作に捨てられ、作業小屋になっていた「てんてつバス」車両2台を発見した。さらに進むと「おびらしべ湖」という大きな人造湖が出現する。
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人口 人のた滝見地区にあったてんてつバス廃車 作業小屋に使われていた
滝見大橋という立派な橋が架かっており、このあたりから先は人はいないようである。かつててんてつバスが走っていた「滝下」地区は確認できたが、終点の「東和」はどのあたりかわからなかった。
炭鉱跡から滝下地区、ダムと30分程度で見学が終えてしまい達布へ戻る。
先ほど営業をしているのを確認した「寿食堂」の前に車を停めた。昼食にはありつけないと思っており、コンビニで食料を調達していたがこの食堂に入らない手はない。中へ入るとけっこう客がいる(3組程度だが)。工事関係者であろうか。
食堂の前を通る県道は霧立峠へ向かっており、もし名寄方面から車で来れば途中店はなさそうだ。小平方面から入ってもここまで商店はない。「寿食堂」は駐車場はないが、ドライブイン機能を果たしている訳だ。オーダーしたのはシンプルにラーメン。周囲が注文していたからだが正統派のしょうゆ味。悪くない。こういう名も無い食堂のラーメンは大当たりする時がある。
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達布集落唯一の飲食店 寿食堂
外へ出るとてんてつバスの車庫や営業所と10年ぶりに再会。この営業所は天塩炭鉱鉄道時代のものらしく、中に入ってみると当時のものであろう乗車券を収納する木箱(?)などがある。50年前に完全にタイムスリップしている。
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てんてつバス達布車庫とタイムスリップしたようなバス営業所内
停留所からは13時40分発の最終バスが既に出発していた。車庫にバスは停まっているが明日の7時まで留萌行きのバスはない。通学と通院(買い物兼)を目的とした典型的な過疎集落のバスダイヤである。周辺にはセイコーマートもなく、このバスを見逃すと町へは出られないのだ。
達布の人口は百数十人、途中、かつて鉄道駅があった沖内、住吉など併せても3,4百人であろう。沿線の多くがマイカー利用者であろうし、いつまで存続できるのか。
あらためて、このバスは残っているのが不思議だ。炭鉱鉄道時代から経営者も変わっていないのか、住民への誠意ともかんじる。産炭地なので補助金が今でもあり、路線維持できているのであろうか。ここまで来たら、人口がある限り、走り続けて欲しいと願う。
また4年が経過した。
昨年あたりから「道内時刻表」からてんてつバスダイヤが消えている。
まさか廃止かと思ったが、時刻表自体のリストラか、生活路線バスの掲載をやめてしまったのだ。てんてつバスHPには「達布⇔留萌路線 毎日運行中」とある。ダイヤも全く変わっていない。
達布地区は整備が進み、変貌してしまったようだが、何と「たっぷり館」という温浴施設が出来ている。滝下地区に湧き出る鉱泉水を利用した温泉だ。温泉と訊いて、また達布に行ってみたくなった。
てんてつバスは今日も走っている。
北海道ローカル路線バスで行く秘境旅 『てんてつバス 留萌-達布』(上編)
2009年12月13日掲 載
写真:留萌駅付近を走るてんてつバス達布行き 下は沿岸バス留萌駅前バス停ここにはてんてつは停まらない(1996年撮影)
2009年現在、北海道には私鉄が存在しない。かつては炭鉱鉄道や殖民鉄道、温泉地を結ぶ観光鉄道などいくつかの私鉄が存在したが、国鉄ローカル線の多くが廃止される前には姿を消してしまった。バス事業へ転換をした会社もいくつかあり、社名にその名残をかんじることができる。
定山渓鉄道が「じょうてつバス」、旭川電気軌道や士別軌道などはそのまま名前を引き継いでいる。この他、あつまバス、拓殖バス、十勝バス、根室交通、網走交通などが鉄道会社の流れを引く。このあたりのデータについては、最近多くの出版物で紹介されているので、そちらの方で参照していただきたい。
その中で、今でも社名に「鉄(てつ)」を残しているバス会社のひとつに「てんてつバス」がある。多くの方が社名を聞いても、どこに存在するのかピンと来ないと思うが、鉄道会社時代は天塩炭鉱鉄道といった。昭和41年の炭鉱閉山による鉄道廃止後はバス会社として、天塩炭坑鉄道バスに改称し、その後、てんてつバスになっている。鉄路があった留萌-達布間一路線のみの運行で、今も同じルートを走っているのだ。
平成4年、私が「てんてつバス」を知ったのは、留萌から羽幌方面へ行く沿岸バスに乗車をした際、留萌市内でこの会社の営業所の前を通ったことがきっかけだ。古びたバスが4,5台並んでいたが、車体前方に行き先表示板があったので路線バス会社のようであったが、「てんてつバス」の看板が気になった。
その後、道内発行の鉄道時刻表を読んでいるとバスダイヤの欄に「てんてつバス」が載っていることに気付いた。一路線のみで4往復しかなく、大変興味を惹かれ、私は思い切って、てんてつバス本社に電話を入れてみた。
当時はインターネットもなく、鉄道廃線ブームにもなる前、北海道のローカル私鉄や路線バスの情報など殆ど入手できなかった時代だ。電話には年配と思しき男性が出た。最初は鉄道について聞いたが、炭鉱鉄道の歴史などについて質問すると社長が代わりに登場した。
まず、素朴な疑問として「バスは一路線だけなのですか」と聞いてみた。失礼かとも思ったが、「そうです」ということで、かつての鉄道駅を忠実に守ってバスを走らせているという。本当は「営業が成り立つのですか」とも質問したかったが、流石に控えた。当時はローカルバスへの補助金や助成金制度、また、貸切バスをやっていることなど業界知識は全くなかった。社長からは最後に「うちみたいな会社に興味があるなら是非遊びに来て下さい」と言われた。
鉄道会社であったのに、一路線で一日4往復しか走っていない会社。これは興味を惹かれた。まず、終点の達布(たっぷ)がどんなところが気になった。達布という地名の響きもいい。
達布がある小平町は、日本海沿いにあり海の町を想像するが、達布は山間に十数キロ入ったところにあり、留萌炭田地帯のひとつである。留萌線の恵比島から留萌鉄道(昭和44年廃止)で入る昭和炭鉱や羽幌炭鉱は規模が大きかったが、天塩炭鉱の方はスケールが小さく採掘時期も短かったようだ。
だいぶ時間が経過し、てんてつバスに乗車したのは、4年後の平成8年のこと。札幌から特急列車で深川まで行き、留萌本線に乗り換えて留萌駅へ。北海道時刻表を見ると「神社下」が始発になっているが、その神社がどこにあるのかわからない。神社下前の次が留萌駅前と時刻表には書かれているので、そこから乗ることにした。
沿岸バスの「駅前」バス停は乗り降りしたことがあったので向かってみたが、てんてつバスの停留所や案内もない。時間が段々迫ってくる。ふたたび駅の方へ戻り、バス停を探しに行くと、小田急バスのような朱色と白の初めて見る車両が私の方へ走ってきた。中型バスだが、「達布」と書かれており、車両も新しい。4年前に見たものとはかなり違っていたが、思わず手を挙げてしまった。運転手が扉を開けてくれた。
「駅前のバス停がわからないので・・・・」と云いかけると
「乗るの?」と聞き返され、そのまま乗車した。
念のために達布からの折り返しのバスが時刻表通りか確認をした。
車内は閑散としていた。爺婆と中年女性が2,3人乗っていた程度であろうか。時間帯が昼過ぎであり、道内のローカルバスではふつうの光景である。留萌の町から海に出ると暫くそのまま走る。どこにも停まらないが、沿岸バスと重複する留萌~信金前間は乗車のみということで、留萌行きのバスはその区間、下車のみらしい。
知らない路線バスに乗る時はいつも不安と緊張、好奇心とが交錯する。事前に時刻や乗り場など調べても、心細さは消えず、心臓の鼓動すらかんじる。ある種の冒険、探検気分である。これは鉄道の初乗りではないことで、未知なる世界へ引っ張って行かれるドキドキ感とでもいようか。情報はあるにこしたことはないが、少ない情報の中、不安と緊張感も旅の醍醐味のひとつだと思う。
30分ほど走ると海を離れて、山間へ入って行った。山といっても畑が多く、アスパラやメロン栽培など土地か開けているかんじで、夕張・美唄など空知の産炭地と較べると、長閑で、雰囲気も明るい。
かつて炭鉱鉄道があった天塩本郷駅 - 沖内駅 - 寧楽駅 - 天塩住吉駅 - 達布駅はそのまま名前が残されており、この他、山崎、鈴木、伊藤、安藤など個人宅名のバス停が多い。北海道ではおなじみである。途中で中年女性も降り、客は老婆と私だけとなり暫く走ると民家が増え、プチ市街地らしきものを形成している。終点の達布であった。
折り返しまでは30分もないので、達布の市街地(集落)を歩いてみた。商店が数軒あり、多くが閉まっていたが食堂もあり、いちばん驚いたのは傾きかけた旅館であった。廃墟かと思って近づいてみると何と営業をしている。1泊朝食おにぎり付き3,500円となる。看板も古くて、判読すら難しいのだが「紅屋旅館」と書いてある。
いったい誰が泊まるのか?この集落、空知の旧産炭地とは全く雰囲気が異なり、暗くないのがいい。未知なるゾーンに迷い込んでしまったかんじだ。炭鉱跡まで行ってみたかったが、それらしくものも見当たらず、30分では戻ってこれそうもないので、今回は引き上げ出直しを決意する。
つづく
写真:今にも崩れそうな紅屋旅館、昔は駅前旅館であったのであろう 1996年当時の達布営業所時刻表
今後、不定期で道内の知られていない路線バスや人があまり訪れない”秘境”を紹介して行きたいと思います。(1996年撮影)
